第3話
あれから二日、麦がご飯を食べなくなってしまった。
朝も夜も、一切ご飯を食べようとしない。水分はとっているから今すぐに死ぬようなことはないけど、ぐったりとしていた。
金色のスプーンを握っていても、あの蜂蜜色の幸せは見えてこない。
麦の笑顔も一切ない。
私は気付いていた。私が、麦の幸せを奪ってしまったってことに。
だけど、それを認めたくなくて、私は動物病院に駆け込んだ。
「麦ちゃんが、ご飯を食べない?」
診察台でぐったりとしている麦を触診しながら、お医者様は言う。お腹辺りを重点的に触診している。麦は病院が苦手で、さっきからガタガタと震えてしまっていた。
怖がる麦を見ながら、私は頷く。
「あの、病気とかじゃ、ないですよね……?」
私は怖々と、でも一時の体調不良であることを心のどこかで期待して、お医者様に尋ねる。
私が麦を不幸にしたんじゃないって確証が欲しかった。科学で説明がつくような理由が欲しかった。
お医者様は触診をやめ、麦の口を開かせる。口の中を覗き込み、歯や口腔内に異常がないことを確かめる。
しばらくはエコーを撮ったり、採血をしたりしていたけど、ややあって、お医者様は言った。
「はっきりとした原因はわからないね。今回採血した分を、遺伝子検査に回そう。結果が判明するまでに、少なくとも一週間はかかるけど」
私は唖然とした。
動物病院に来れば、結果がすぐにわかると思ってたのに。何で。
「麦は食べられないんですよ……結果が出る前に、もしものことがあったら……!」
「竹下さん、麦ちゃんにしっかりとご飯を食べさせてあげてください。栄養剤も出しておきますから。多少無理させても構わない。とにかく食べさせて」
そうして、今日の診察は終わった。
麦を抱きかかえ、診察室を出て、私は待合室の椅子に座る。二日食べていない麦の体は、やけに軽く感じた。
「麦、ごめんね……」
私は麦を見下ろして呟く。
きっと私のせいだ。私が麦の幸せを奪ったせい。そして、私のしたことを認めたくなくて、麦が大嫌いな動物病院に無理やり連れてきて、いらないストレスをかけてしまっている。
じわりと涙がにじむ。ぽたり、ぽたりと、麦の滑らかな毛並みに雫が落ちる。
麦は「キュウ」とか細く鳴いて、私の涙を舐めとった。
私は目を丸くする。麦は、弱弱しく笑顔を浮かべていた。
コーギー特有の、とろけるようなあの笑顔。
「麦は、今、幸せ?」
麦は私の手に鼻をこすりつける。まだ、信頼されている。
「スマラグドゥスのスプーンはね、幸せを掬いとるためのものなのさ」
不意に声が聞こえた。私は顔を上げる。
目の前には、残業帰りの夜に立ち寄った雑貨屋、星降堂の魔女がいた。辺りには、キラキラと輝く雑貨達。
さっきまでここは動物病院だったはず。いつの間に星降堂に来ていたのだろうか。
「でもね、道具は使いようだ。幸せを手に入れる道具が、他人を不幸にすることだってある」
私は歯噛みする。今まさに、私は麦を不幸にしてしまっている。
幸せがほしいという、私の身勝手さのために。
「どうすればいいんですか……」
ぽつりとつぶやく。
「ここには他にも魔法の道具があるんでしょう? 麦を助けられる道具も、あるんでしょう?」
だけど、魔女は首を振る。まるで、私に売る道具はないと言うように。
酷いと思った。憎いと思った。この魔女に出会わなければ、こんな不幸なこと起こらなかったはずなのに。
「それは違うね」
魔女は、私の心を見透かした。
「私はスプーンを売っただけ。使い方は君次第だった」
言い返す言葉がなく、私は喉を詰まらせる。
魔女は、赤と黒の目を細め、ふわりと笑った。
「ヒントをあげよう。
幸せは、与えることもできるのさ」
景色が溶けていく。魔女の姿も、星降堂も、霧が晴れるように消えていく。
その代わりに現れた景色は、自分の家だった。
いつの間に、動物病院から帰ってきたんだろう。記憶がない。なのに、鞄の中には領収書と栄養剤が入っていた。
「麦も、あの魔女に会ったよね?」
麦は返事をしない。私の腕の中で寝ているようだった。
麦の穏やかな寝顔は、いつも私に充足感と幸せをくれる。麦には幸せを貰うばかりで、私は麦に幸せをあげられているんだろうか。
「幸せを、あげる……」
私は目を見開いた。
気付いたんだ。私の幸せを、麦にあげればいいんだってことに。
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