5.突破
今日の授業は、三眼目までだ。
昨夜、井上先輩から釘を刺された。
ただ、釘を刺されていたのは、律子と山岡さんだ。
千景は、釘を刺されていない。
きちんと、律子の相談に乗るように、指導を受けただけだ。
つまり、千景は、対象外だ。
まだ午後三時になっていない。
昼食の後、洗濯も済ませた。
夕食が午後七時三十分までだから、七時過ぎに帰寮すれば、間に合う。
三時から七時まで、四時間。
岩屋公園へ行ってみたい。
しかし、ここで、問題がある。
どうやって、記者軍団の包囲網を突破するかだ。
援軍も随分と増えている。
だが、千景は、足が速い。
律子と同じ、猛ダッシュを選択しようと思っている。
正門は、各局、精鋭部隊が陣を布いている。
東門も北門も門扉を閉ざしている。
それでも、東門も北門も、密かに記者団が張り込んでいる。
千景は、部屋へ戻って、ジャージの上下に着替えた。
というか、寮では、常にジャージだ。
首からタオルを掛けて、グランドへ出た。
目指すは、南のグランド。
グランドの外は、フェンスに沿って用水路が流れている。
フェンスから用水路の縁石まで、五十センチ程の細長い隙間がある。
用水路の向う側は、狭い農道が通っている。
さすがに、そこまでは、報道陣も張り込んでいない。
フェンスを越えれば、突破できる。
千景は、ランニングを装って、グランドの角で、辺りを見渡した。
誰も気付いていない。
スチールネットに爪先と指先を突っ込み、よじ登った。
フェンスは三メートル程だ。
結構高い。
フェンスを跨ぎ外側へ降りた。
フェンスと用水路の隙間に立った。
脱出成功。
と、その時。
「何してるの?」
用水路が、道路に沿う曲り角で、井上先輩がいた。
井上先輩もジャージ姿だ。
「はい。いえ。それが」
千景は、最近、運動不足だから、グランドを走っていた。
ふと気付く、とグランドの外にいた。
千景は、怪しい言い訳をした。
「フェンス、よじ登ってたの、見てたけど」
井上先輩が云った。
千景は気付いた。
井上先輩も校庭から出ている。
「先輩は、どうしたんですか」
千景は尋ねた。
「私は、そこから出たのよ」
井上先輩が、指差して云った。
フェンスに沿って、東門へ向かった。
路肩を歩いて、すぐのところに、ビニールネットが掛っている。
千景は、井上先輩に付いて行った。
ビニールネットの、撓んだ裾を潜ると、グランドへ通じていた。
「いや、だから、どうしてですか」
千景は尋ねた。
「何が?」
井上先輩が尋ね返した。
「先輩は、何故、どこへ出掛けるつもり、なのですか」
千景は聞き直した。
「ああ。それは、秋山さんと同じよ」
井上先輩が云った。
「えっ。岩屋公園ですか」
千景は驚いた。
昨夜、あれだけ叱っておきながら、井上先輩が外出しようとしている。
「正門のバス停へは行けないから、一つか、二つ先まで、歩きましょう」
井上先輩が云った。
正門に高専前のバス停がある。
しかし、正門には、多くの報道関係者が詰め掛けている。
千景は、井上先輩と、次のバス停へ向かって歩いた。
随分、遠くまで歩いたつもりだが、まだ五分くらいしか歩いていない。
交番の近くに、バス停が見える。
近付くと、二人がバスを待っていた。
井上先輩は、一人のバスを待っている女性が、気になっているようだ。
女性は、井上先輩に、背を向けて立っている。
パンツスーツ姿で、どう見ても会社勤めの女性にしか見えない。
井上先輩が、さり気なく女性の正面に回った。
時節柄、マスクをしている。
メガネを掛けている。
女性は、井上先輩を避けるように、後方へ向きを変えた。
千景に気付いたように、慌てて反対方向へ、また向きを変えた。
「正本先輩」
井上先輩が、女性に声を掛けた。
えっ?
千景は、驚いた。正本先輩?
女性が立ち去ろうとする。
「待ってください」
井上先輩が制止する。
千景は、女性の前に立ちはだかる。
女性が逃げるのを諦めた。
「どうやって、報道陣から逃れたのですか」
井上先輩が尋ねた。
バスには、六人乗っている。
「これよ」
正本先輩は、バッグから、寮生案内用のエンジ色の腕章を見せた。
パンツスーツに腕章を付けて、記者に紛れて脱出した。
「次、降りるわよ」
岩屋神社前の二つ手前の、バス停を過ぎると、正本先輩が云った。
「何故?」
井上先輩が尋ねた。
「手ぶらで、岩屋公園へ行くつもり?」
岩屋公園の一つ手前のバス停には、スーパーがある。
正本先輩が、そこで、供花を買って、持って行くと云った。
スーパーで、供花を買った。
岩屋神社まで歩いた。
途中、千景は井上先輩に尋ねた。
「何故、岩屋公園へ行こうと思ったのですか」
井上先輩は、岩屋公園がどんな所か見ておきたいと答えた。
同じ事を正本先輩にも質問した。
花を供えたい。と答えた。
「秋山さんは?」
正本先輩が尋ねた。
「私は、どんな人が、いや、誰が、来ているのかと思って」
千景は、説明した。
律子が、二日続けて、岩屋公園へ行っている。
正本先輩も井上先輩も、やはり岩屋公園へ向かっている。
寮生は、現状、寮から外出する事が困難だ。
自宅から通っている学生は、比較的、出掛け易いだろう。
千景は、携帯のカメラで、花を供えている人をこっそり撮るつもりだ。
と答えた。
「写真なんか撮ってて、見付かったら、通報されるわよ」
正本先輩が心配して云った。
殺人事件の現場で、写真なんか撮ってたら不審者だ。
「でも」
千景は、携帯のメッセージを見せた。
律子が、携帯で写真を撮っていた。
昨日も一昨日もだ。
しかし、誰からも、何も云われていない。
メッセージに、二日とも写真を添付していた。
律子の撮影場所は、岩屋神社の参道から、公園へ入って、すぐの所だ。
アングルが、同じだ。
池の畔の、ベンチを狙って撮っている。
何人か、池の向岸に写っている。
月曜、火曜日と、律子が、写真を撮っている。
今日は、千景の番かなあ。と思って脱出した。
「大胆なんやなあ。新入生」
井上先輩が感心?いや、呆れた。
岩屋神社の参道から、公園へ向かって歩いた。
ベンチの周囲、半径三メートルくらい、まだ規制線テープが張られている。
千景は、先陣の律子が、写真撮影したと思われる場所から、携帯で写真を撮った。
やはり、周辺には、何人かの高専生が居た。
警察官が二名、立っている。
正本先輩が、警察官に声を掛けた。
ベンチの前には、沢山の花束が、供えられている。
正本先輩に従って、三人一緒に花束をベンチの近くへ供えた。
千景は、ある男子学年が気になった。
すぐに写真を撮った。
高専の制服を着ている。
どこかで見た記憶がある。
「井上先輩。あの人。誰ですか?」
千景は、池の向岸を見ていた。
男子学年は、葉桜の前で、周辺を注意深く見ている。
誰かを待っているように見える。
あるいは、誰かを探しているようだ。
「え?」
井上先輩が向岸を見た。
「分からない」
井上先輩は、その男子学年を知らない。
「ああ。あの子、清明寮の寮生よ」
正本先輩が、云った。
清明寮は、男子学生寮だ。
「名前は?」
千景は、更に尋ねた。
「知らない。けど、聞けば、分かるわよ」
正本先輩が云った。
「確認してください」
千景は、正本先輩に、指示するように云った。
「分かったわ」
正本先輩が了解した。
「何かあるの?」
井上先輩が云った。
「いいえ。ただ、あの人、月曜日も火曜日も、ここに来てるんです」
勿論、律子が、ずっと、居た訳ではない。
そして、千景も来たばかりだ。
高専の学生なら、授業の終了後に出掛ける事になる。
時間が重なるのは分かる。
しかし、あの男子寮生は、少なくとも、月曜日、火曜日、そして、今日も来ている。
月曜日にも、火曜日にも、律子の携帯に写っていた。
そして、今日も、その寮生が来ている。
森本さんと、親しかったのだろうか。
「その携帯の写真。私に送って」
正本先輩が云った。
千景は、正本先輩と井上先輩に写真を送った。
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