8.点呼
午後九時の門限。
玄関を施錠する時間だ。
ただし、寮生は、カードキーを持っている。
だから、門限を過ぎても、寮に入る事は可能だ。
カードキーには、個別データの登録と暗証番号を設定している。
支援事務室では、誰が、カードキーを使用したのかが判る。
門限を過ぎる場合、寮務委員の叱責を覚悟で、事前に連絡しなければならない。
例えば、帰省先から戻る途中、交通事故に巻き込まれた等。らしい。
門限を過ぎてから連絡した場合は、寮務主事か寮務主事補から叱責される。
連絡が無い場合も、寮務主事から叱責される。
悪くすると、退寮処分になるかもしれない。
玄関施錠の後、点呼がある。
部屋から出て、ドアの前で立っていると、宿直の先生が巡回して来る。
部屋を一瞥して、去って行く。
白川先生の場合は、比較的あっさりした巡回だった。
点呼が終わって、律子が、千景の部屋を訪ねて来た。
「森本さんは、まだ、戻ってないそうや」
律子が、正本先輩から聞いたそうだ。
森本さんという寮生が、共用部清掃に現れなかった寮生だ。
外泊届は、原則、外泊する三日前に提出する事になっている。
祝日等の関係で一日早まる場合がある。
通常、外泊は、帰省先以外、認められない。
帰省先以外の外泊は、保護者からの連絡が必須だ。
事件事故があった場合は、保護者の責任で、処理しなければならない。
と云っても、帰省先に外泊して、事件事故があっても、保護者の責任で処理しなければならない。
寮生が帰寮する時、外泊届に保護者が確認印を押して、返却しなければならない。
外泊届は、外出届、欠食届がセットになっている。
森本さんは、規定の期日までに、外泊届を提出していない。
しかし、原則があれば、例外もある。
休日には、日直の先生がいる。
日直の先生に、外泊届を提出して、許可されると外泊する事が出来る。
ただし、保護者からの連絡が必須だ。
森本さんは、日直の先生に外泊届を提出していない。
保護者からの連絡も、なかった。
外出だけなら自由だ。
門限までに、帰寮できるのであれば、外出は可能だ。
しかし、共用部清掃当番なら、午後八時三十分までに、帰寮していなければならない。
共用部清掃の開始時間が、午後八時三十分からだからだ。
共用部清掃当番で、午後八時三十分までに帰寮出来ない場合は、誰かに当番を交替してもらわなければならない。
それでは、何故、共用部清掃の時に、一人足りなかったのか。
それは、共用部清掃当番の交替届は無いからだ。
当番の本人が、交替者に口頭で依頼し、承諾されれば成立するだけだ。
森本さんが、共用部清掃当番の交替依頼を忘れていた場合、誰も清掃に現れない。
あるいは、交替依頼を受けた寮生が、忘れた場合もある。
だから、稀にトラブルが発生する事はある。
と律子が長々と説明してくれた。
結論を云うと、共用部清掃の時に、居なかったのは、森本薫子さんという二年生の寮生だ。
あるいは、その交替者だ。
森本さんといわれても、顔と名前が一致しない。
仮に、一致したとしても、どういう人のか分からない。
千景は、同じ、共用部清掃班で、井上先輩以外、分からない。
班別構成員表はあるが、名前だけで、学年も学科も記載はない。
確かに、構成員表の千景が入る班には、森本薫子と、名前がある。
学年や学科が、記載されていたとしても、顔と名前が一致しない。
金曜日の夜、自己紹介をしたが、まだ覚えていない。
しかも、土曜日は、当番の一人が帰省していた。
だから、一人は、帰省した寮生と交替した学生だった。
益々、混乱してしまう。
更に、律子が、正本先輩に尋ねたそうだ。
正本先輩は、点呼や門限に遅れた事が無いのか。
「門限に遅れた事は無いわ」
正本先輩は、胸を張って、得意そうに堂々と答えた。
「ただ」
正本先輩は、俯いて告白した。
「私は、朝も夜も、点呼に遅れた事が何度もあります」
夜遅くまで勉強していて、朝寝坊する事が、よくあったそうだ。
同じく夜も夕食後、ちょっと横になって、そのまま、眠ってしまう事もあったそうだ。
しかし、それは、二年生までで、三年生からは、一度も点呼に遅れた事はない。
正本先輩が、必死に弁明した。
四年生からは、夜の点呼だけだ。
もし、朝の点呼があれば、どうだか分からない。
と律子が疑っていた。
つまり、はっきりしているのは、森本薫子さんが、門限破りをして、点呼にも出ていない。という事だ。
井上先輩が、千景の部屋を訪ねて来た。
「小倉さんも来てるのね」
ちょうど良かったと、律子に予習ノートを持って来るように云った。
「二人とも、ちゃんと予習ノート作ってる?」
井上先輩が、千景と律子の勉強の進捗を気にしていた。
二人が予習ノートを見せると、もう少し進めておくように助言した。
とにかく、授業は、猛スピードで進む。
しっかり、予習しておかないと、付いて行けなくなる。
そして、各学科の先生の授業の特徴を教えてくれた。
先生全員に、共通しているのは、授業は仕事だから、分かり易く教える。
学生からの質問に対しても、丁寧で、理解出来るまで説明する。
しかし、先生にとって大切なのは、自身の研究だ。
学生に対しては、無関心だ。
授業中、他の学生の迷惑にならない限り、何をしても良い。
授業中、学生を叱責したり、注意する事も無い。
テストの成績と課題の提出でしか、学生を評価しない。
先生にとって、それ以上の存在ではない。
そもそも、先生と気軽に呼んでいるが、教授、准教授なのだ。
皆、博士号を持っている。
つまり、博士と呼ばれる研究者なのだ。
成程。中学校では、進路指導、生活指導、そして三者面談。
先生が直接生徒に、煩わしいくらいに、関わってくる。
それなのに、規則違反をした生徒がいると、連帯責任だと云って、施設を利用出来なくしたりする。
規則を破った生徒の指導もせずに、連帯責任?中途半端。
高専最高!
個人の自由だけど、責任も個人で負う。
先生の介入が無い。素晴らしい。
携帯電話の着信音。
三人が、一斉に自分の携帯電話を確認した。
井上先輩が応答した。
「ちょっと、行って来るわ。ちゃんと予習するのよ。後で、また寄るからね」
そう云って、井上先輩が出て行った。
午後十時三十分。
千景と律子は、予習ノートの作成を始めた。
慌ただしく、廊下を走る音がする。
点呼の後は、出来る限り、静かにしなければならない。
正本先輩が、千景の部屋へ入って来た。
「ちょっと、手伝って」
正本先輩が、忙しく云った。
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