7.門限

平沢先輩が、堪え切れず笑っている。

「嵌められたの?」

平沢先輩が、笑顔で云った。


大きな水槽の前。藤棚のベンチで、朝十時に待ち合わせた。

藤の花はまだ咲いていない。

棚の格子から届く光は柔らかい。


昨夜、千景は、平沢先輩へ電話を掛けた。

いや、掛けさせられた。

正本先輩と井上先輩の二人に見守られて。いや監視されていたのだ。


「正本さんも井上さんも、言い辛かったんやろな」

平沢先輩は、栗林市で聞いた時と同じ、方言で云った。

平沢先輩は、怒っていない。


「分かったわ」

あっさりと了解した。


ただし、入寮までには、日数が掛かる。

アパートの退室手続きや、引っ越しの準備がある。

入寮の日程は、また連絡すると云う。


考えてみると、随分と迷惑を掛ける事になる。

家電類は、まず、寮へ持ち込めない。

他にも、かなり実家へ送り返す事になる。


それでも、入寮すると云ってくれている。

平沢先輩と、この藤棚のベンチで会った。

その時、入寮日の事件について、調べてみると云っていた。


何かしら関心があったのだ。

平沢先輩は、入寮日当日の事件と、今回の噂に、意図的なものを感じているそうだ。


平沢先輩から、昼食に誘われたが、欠食届を提出していないからと云って断った。

残念。


正午。

千景が寮へ戻ると正本先輩と井上先輩が、緊張した面持ちで待っていた。

「寮に入る。と云って、いただきました」

千景が報告すると、ほっとしたようだ。


一緒に、学寮食堂で昼食を食べた。

二階のコミュニケーションスペースへ向かった。

千景は、二人の先輩に平沢先輩の話した内容を報告した。


午後六時頃、

律子が鈴音寮に戻って来た。

大きなエコバッグを持っている。

お土産に「骨付鶏味ポテトチップ」を三袋貰った。

懐かしい。

まだ一週間も経っていない。

それでも、「骨付鶏味ポテトチップ」が懐かしかった。


二階の補食室で、一緒にポテトチップを食べて喋っていた。


話題は、ナリスマシ事件に決まっている。

何が目的なのか、想像して話し合った。

ナリスマシされた学生に、恨みがあった。

または、寮に恨みがあった。


あるいは、その両方に恨みがあった。

どんな恨み。

もう、それこそ、想像しようが無い。


ただ、千景は、「噂」については、喋らなかった。

噂が噂を呼び、拡がってしまうからだ。

中学校で起こった、ある事件で学んでいる。

千景は、噂とナリスマシは、関係しているように思う。


正本先輩が補食室へ入って来た。

カップラーメンを持っている。

「こんばんは」「こんばんは」と挨拶。


「正本先輩。これ。お土産です」

律子が、エコバッグから、ポテトチップを二袋出して渡した。


「ありがとう。今、戻ったの」

正本先輩が、薬缶に水を入れながら云った。


「はい。骨付鶏味。美味しいんです」

律子が云った。


「そう言えば、小倉さんは、栗林市だったわね」

正本先輩が、電子クッキングヒーターのスイッチにタッチして、テーブルに着いた。


「そうです」

律子が答えた。


正本先輩が、何かを納得したようだ。

お湯が沸いたようだ。

正本先輩がカップラーメンにお湯を注いで、蓋の上に袋のスープを置いた。


「ちょっと、お土産、配ってきます」

それを見て、律子がエコバッグを提げて、補食室から出て行った。


千景は、正本先輩と話しをしたかったので、残った。


「先輩は、小倉さんが栗林市出身と聞いて、何か頷いていましたけど、何か、あるんですか?」

千景は、気になっていた、


「これは、あくまでも、私の感想よ」

と断って正本先輩が話し始めた。


栗林市出身の人は、と決め付けるのは良くないが、人見知りの人が多いと思う。


「失礼」

と云って、正本先輩が、カップラーメンを一口すすった。


正本先輩の話しは続く。

相手が話し掛けると、打ち解けて会話する。

しかし、どこかで一線を引いている。

秋山さんも小倉さんも良く似ている。


正本先輩が、カップラーメンを食べ終え、スープを飲み干した。


「秋山さんは、あの噂話、喋らなかったのね」

正本先輩が云った。


正本先輩は、千景が、仲の良い律子に、「噂」を喋っていないのは、一線を引いているからだ。

と云っている。


「はい。喋ってません。でも、違うんです」

千景は、中学校で起こった事件の内容を話した。

たった一言の噂話に、尾ひれが付いた。

幼馴染のクラスメイトの一人は、転校した。

もう一人は、殺された。

あの事件の事だ。


「そんな事があったの」

正本先輩は、千景を見て、気の毒そうに云った。


「儚い初恋だったのね」

正本先輩は、何か勘違いしている。


「違います」

千景は、慌てて誤解を解こうとした。


「そろそろ、清掃の時間ね」

正本先輩が、千景の弁明を無視して、清掃へ促した。


午後八時三十分。共用部清掃の時間。

千景達は、コミュニケーションスペースと補食室の担当だ。

だから、誰からも、当番交替の依頼は、無かった。


千景の班は、責任者が四年生の井上先輩。

人員構成は、四年生二名、三年生一名、二年生一名と一年生の千景で五名だ。

全部で十四班ある。


正本先輩の班は、トイレ、洗面室担当。

トイレは、一階から四階まである。


他に、浴室、脱衣所、シャワー室の担当の班。

浴室は二階だけだ。

ランドリースペースの班。

ランドリースペースは、二階から四階まである。

来週の木曜日まで、この四班で共用部清掃を担当する。


コミュニケーションスペースは、二階から四階まで。

一階にも、コミュニケーションスペースはあるのだが、週に一度、執行部会が清掃を担当している。


四人で清掃を始めた。

おかしい。班の人員は五人の筈だ。

一人、足りない。

井上先輩も、すぐに気付いた。

門限は、午後九時だから、それまでに戻るつもりだろうか。


共用部清掃の当番になっている寮生が、帰省して外泊する場合、誰かと交替しなければならない。

この時間、帰省していた寮生は、殆ど戻っている。

井上先輩は、律子を呼び出した。

臨時に律子が、共用部清掃の当番に入った。

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