1.道中
「ちょっと待って!忘れ物」
そう云って、千景は、二階に駆け上がった。
ジャンパーの、内ポケットへ入れた。
「千景。何をしよん。間に合わんよ。急いで!」
景子さんが、千景を急かす。
景子さんは、千景のお母さんだ。
千景は、四月から、隣県の石鎚山高専に入学する。
去年の夏休み、弘君の仕事の関係で、平沢真由さんに会った。
平沢さんの、お祖父さんが殺害された事件で、林刑事の邪魔?お手伝いをした。
弘君というのは、千景のお父さんだ。
平沢さんは、石鎚山高専の専攻科二年の女学生だ。
平沢さんは、素敵な女性だった。
顔が輝いていた。
千景は、平沢さんに憧れた。
最初に想像したのは、平沢さんが白衣を着て、顕微鏡を覗いている姿だった。
やがて、その想像は、妄想に変わった。
白衣姿で、顕微鏡を覗いているのは、千景だ。
そんな妄想をして、つい興奮していた。
そして、石鎚山高専を目指した。
担任の西川先生も、学年主任の川口先生も、千景は、文化系の方面へ進学するものと思っていた。
いや、千景自身もそう思っていた。
最後には、先生方も、応援してくれるようになった。
ただ、一つ、問題があった。
数学と理科は、大丈夫だ。
問題は、英語だった。
七十点の壁を超えられない。
これは、理科系にしろ、文化系にしろ、克服しなければならない。
どうやって、克服しようかと考えた。
千景は、国語が得意だ。
それは、本を読むのが、好きだからだ。
それでは、と海外の有名作家の短編集を買った。
勿論、翻訳本ではない。
ちゃんと、英語で書かれている。
B六判の薄くて、小さな本だが、ちゃんと、ハードカバーの表紙が付いている。
そのハードカバーの上に、本屋さんの広告カバーを付けて、大事にしている。
読み進めていくと、これが面白かった。
特に、金庫室に閉じ込められた子供達を救うために、元金庫破りの男が、刑事の目の前で、金庫破りをする。というストーリーが好きだ。
入試の直前には、英語の苦手意識が無くなっていた。
それが、功を奏したのかどうかは、分からないが、めでたく合格した。
試験は、二月中旬だった。
不合格なら、県立高校を受験するつもりだった。
しかし、まだ、受験願書を提出していなかった。
合格発表の当日、平静を装っていたが、結構、喉が渇き、心拍数が増えていた。
中学校の授業は、全て自習になっていた。
学年主任の川口先生が、二時限目終了後「おめでとう」と教えてくれた。
景子さんは、その後、入学手続き準備に追われる事になった。
手続日程表を見ると三月に、二度、石鎚山高専へ手続きに行けば良いだけだ。
一ヶ月半、ずっと自由だ。
三月初旬に入学説明会に出席した。
入学までの日程確認と提出書類の確認だった。
学校では、学科に必要な製図用具を購入した。
それで解散だった。
学校指定の洋装店で、制服を注文して自宅へ帰った。
三月の中旬に、書類を提出に行った。
本当は、郵送でも良かったのだが、早く教科書を購入したかったので、学校まで出掛けて、直接提出した。
本屋で、教科書を購入する時に、店主にアルバイト店員を紹介された。
横山英江さんという四年生の先輩だった。
学科は違うが、何でも相談してくださいと云われた。
千景が県外から来ている事を聞いて、「じゃあ、鈴音寮ね」
寮生にも、沢山、友達がいるから、何かあったら、何でも相談してくださいと云った。
頼もしい限りだ。
そして、後は、中学校の卒業式だけだ。
今年は、親族の出席制限が無い。
ただし、マスクの着用は、必須だった。
悲しい事件で、一人欠けた。
嬉しさ半分、悔しさ半分だ。
後、二週間、のんびり出来る。
と、いう訳にはならない。
高専から分厚い書類が届いた。
わざわざ、別プリントで春休みの課題を知らせている。
入学して、すぐにテストがある。
英単語と数学だ。
千景は、膨大な数の英単語と毎日、格闘する羽目になった。
石鎚山高専は、隣県なので当然、通えない。
それで、寮に入る事になっている。
明日、寮の部屋へ荷物を運び込む。
そして、生活出来るように片付け、整理をする。
勉強机、椅子、ベッド、ロッカーは、部屋に備え付けられている。
大きな荷物。と云っても、布団と衣装ケース、本棚くらいだ。
それは、荷造りして、学校の指定する宛先に発送している。
だから、発送した荷物は、荷解きして、片付けるだけだ。
持参する、細々した物を整理するだけだ。
明日、午前十から正午までの二時間。
それだけの時間があれば、大丈夫だ。
ただ、栗林市から石鎚山市まで、片道二時間半程度掛かる。
どんなに遅くとも、午前七時には、出発しなければならない。
朝の支度時間を逆算すると、いったい、何時起床になるのか。
それで、今日一日早く出発する事になった。
それでは、どうして、こんなに急いでいるのか。
それは。
試験前日、石鎚山市のホテルで一泊した。
景子さんと弘君は、試験当日、千景を試験会場へ送り届けると、まる一日、する事が無い。
観光するつもりは、無かったが、少し車を走らせたそうだ。
すると、社殿は小さいが、風情のある神社があった。
その神社で、千景の合格を祈願して祈祷した。
景子さんは、ちょうど、その時間が、英語の試験時間だったと云う。
だから合格出来たのだ。と景子さんが云い張る。
それで、大願成就のお礼とご報告に参拝すると云うのだ。
天気予報では、今日、明日、ずっと快晴だ。
どこかで、お弁当買って。花見でもしよう、という事になった。
千景は、それは、それで良いかもしれない。
今夜は、外食だからだ。
新型コロナの影響で、外食する機会が、三年間、殆どなかった
何でも、好きなものを食べれば良いと云われた。
暫し別れの、最後の晩餐だ。
「こら。千景。早くしなさい」
また、景子さんが呼んでいる。
「分かったあ」
千景は、慌てて階段を駆け下りた。
「あれぇ」
弘君が驚いている。
「えぇ」
千景は弘君が、何で驚いているのか分からない。
「早かったなあ」
弘君が云った。
弘君は、玄関脇にしゃがんで、煙草を喫っていた。
弘君は、千景が県外の学校へ進学する事に不満を持っていた。
大学進学で、県外へ行くのは仕方ない。
だから、三年早い。と云う。
出来れば、大学も、県内の大学へ進学して欲しいと思っていた。
その事で、景子さんと揉めていた。
「そんな事を言う暇があったら、千景の引越しの準備、手伝って」
景子さんが云った。
慌ただしく引越しの準備をしていて、そんな感傷に浸っていられない。
弘君は、云い返せなかった。
「十八人も、居るんやなあ」
弘君が、煙草を消しながら、寂しそうに云った。
合格者の受験番号から推測すると、県外から入学する学生は十八人だ。
その内、千景と同県出身者は八人だ。
弘君の思いは、何となく想像出来た。
高速道路を石鎚山インターの手前で下りて、市内方面へ向かった。
十分程走ると、緑の大きな茂みが見えて来た。
神社だ。
あの茂みが、岩屋神社か。
鳥居の前に広場が見えた。
弘君が車を停めた。
ここが、英語のテストに、力を与えてくれた、神社だ。
神妙な顔をして、三人は参拝した。
後は、制服を受け取りに行くだけだ。
車に戻った時、景子さんが云った。
「この先、何があるんやろか」
鳥居の向かいに、木立の茂る参道が続いている。
三人で歩いて行った。
参道の先は、公園だった。
真っ直ぐ歩くと、池があった。
小さいが、綺麗に整備されている。
「ああぁ。綺麗!」
千景は、急いで、池の畔へ向かった。
池の向岸に、いっぱいの桜が咲いている。
満開の桜だった。
三人は、池の畔のベンチへ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます