第一話「こんなはず」
――懐かしい崖に立っている。
電車に乗って約四十分、バスに揺られて約十五分、歩いて約三十分。
登りきった頃には背中は汗でぐっしょり。
金も時間もかけてまで、俺は今から何をする。
日はすっかり落ち、崖の底は見えないほどに暗い。
陽光が燦々と降り注いでいたあの日とは、対照的に。
風は俺は押し出すかのように背中側から吹いてくる。
二の足を踏む俺を急かして、嘲笑っているつもりなのだろうか。
本気で死のうと思っているわけじゃない。
怖い。怖いに決まっている。
何が怖いって、この暗闇に対してじゃない。
死ぬ覚悟もできていないのにここに立っている自分が怖い。
小学生の頃。
この山の崖から人が落ちてしまったことがあるらしい。
死んだんだって、その落ちた人。俺と同い年って言ってた、悲しいな。
前から裏山は崖が多くて危険だって言われてたのに、遊んでたって。
でも実際に崖があるところなんて知らなかったわけだから、起こるべくして起きた事故なのかもしれない。
落ちた人は気づいたはずなんだけどな、目の前に崖があるって。
でも落とした人からは見えなかった、坂だったからね。見えないね。見えなかったね。
そんなつもりはなかったのに、気づいたら加害者。落ちた人も落としてしまった人も、気の毒だ。
何故、落としてしまった人がいると分かる?
事故死。
証拠不十分。
過失致死、ではなく、事故死として警察は処理した。
事故当時、119番に通報。
「友達が崖から落ちた」
小学生と思われる男児からの通報だった。
救急隊員が駆けつけた。
山奥の高さ十五メートルはある崖の下。
最初に駆けつけた隊員は言葉を失った。
頭部の欠損が見られる女児、一名。
女児の側で泣き叫ぶ男児、一名。
その場にいる者全てが、目の前の現実を受け止められなかった。
女児の死亡が確定。
欠損した頭部は修復不可能。胴体も強く地面と衝突しており、骨が飛び出していた。
病院に搬送された時点で、死亡が確認された。
事故死と思われていたが、男児の供述により展開が急変した。
「僕が、落としちゃったかもしれない」
彼の過失により、被害者女児は崖から転落した。
ならば、過失致死。男児はそれも辞さない、そんな態度だった。
自分が犯した罪を自ら通報し、自ら自白し、罪を償うつもりだった。
しかし警察は事故死として処理した。
当時の男児の救命や反省の意思を鑑みて、罪に問う必要性はない。
そもそも男児は十四歳未満の小学生。
あくまで遊びの延長線上に起きてしまった不慮の事故、と判断した。
ただ、事はそれで済むはずがなかった。
殺人者の烙印は既に押されてしまったのだから。
中学は市外のところに通った。
小学校の奴らに会わなくて済むから。
もうあそこには居られない、当然だ。
誰も何も知らない場所に行きたかった。
母はそれでも寄り添ってくれた。
持ち家を手放し、多額の賠償を背負いながらも、俺を支えてくれた。
殺人者の、息子を。
市外といっても、噂は瞬く間に広まっていて、ほとんど意味をなしていなかった。
ついたあだ名は、『殺人者』。
そのままだ。
でもそれが、間違いなく俺の心を蝕んでいった。
友達ができないだけならそれで良いのだが、そんなこともなく虐められた。
高校生になった。
本当は行きたくなかった。
でも母を喜ばせようと、必死に勉強した。
努力は実り、市内トップの高校に合格した。
スケールは小さいかもしれない。
でも、きっと母は喜んでくれると、そう思っていた。
願いは叶わなかった。
うつ病。
母はもう、俺の合格を喜べるような精神状態ではなかった。
進学校はいじめがないと聞いていた。
だから勉強したという節もある。
だが、それは真っ赤な嘘だった。
「お前、人殺したんだってな」
何も変わらない。
俺の気持ちを、誰も理解してくれない。
母も、警察も、学校の奴らも、全員何も理解しない。
全部、俺の望まない方向に事が進んでいった。
境地に到達した俺の思考は、信じられない結論に至る。
今までの事は全部幻想なのではないか、と。
『水槽の脳』というものを知っているだろうか。
今見えているいわゆる『現実』は、実は水槽に浮かべられた脳が見ている『幻想』なのではないか、という仮説だ。
俺はこういう類の話にも興味がある。現実逃避するにはもってこいの話題だからだ。
これまでの人生がうまくいってこなかったのは全部幻想のせいであると、この仮説の下ではそう言える。
ならば、やる事は一つだろう。
このくそったれな世界から俺を解放してくれ。
湿った風、背中を押してくれ。
暗闇、俺を吸い込んでくれ。
もし俺の脳を操っているコンピューターがいるのなら、もうこの世界から俺を逃がしてくれ。
……犯した罪から逃げた俺を、もう地獄でいいから。
こんなことしても、何の償いにもならない。
俺の命を犠牲にして、死者が蘇ることもない。
エゴだ。
世界で一番のクズが最後に送るエゴでしかない。
自分で選べるだけマシだ。
殺された人は、死に際を選べないというのに。
覚悟を決め、一歩踏み出す。何もない空間。経験したことのない違和感が全身に伝わる。
何故こんなことにならないといけなかったんだ。
幻想で良い。空想で良い。想像で良い。だからせめて、夢を見たかった。
身に迫る現実を見て見ぬフリをして、無責任に夢を見たかった。
最後に見た現実は、無惨にも迫り来る地面だった。
当たり前だよ。だって俺は
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