第3話
アンネによって宮廷医のマグマンが呼ばれ、すぐに診察が行われた。しかしその宮廷医というのがどういうつもりか、とんでもない香水の臭いを撒き散らし、鼻が曲がりそうだった。そして一通りの診察が終わり、「容態は快方に向かっているようです」そう言われた。
「良かったです、姫様ぁ……」
そしてアンネはずっと泣き通しだった。今もえぐえぐとしゃくりあげている。
「分かったからもう泣かないで。頭に響くから……」
「も、申し訳ございませぇん……」
「滋養のあるものをお召し上がりなれば、すぐにでも歩けようになるでしょう」
そうであって欲しい。でなければ、またこの悪臭男の診察を受けなければならない。
「だといいけれど」
本当は今も問題なく動けるが、毒殺犯を見極めなければならない以上、あまり目立った行動は取らないよう病人の振りをして、ベッドに入った。
それにしても宮廷医だかなんだか知らないが、このジジイはヤブだ。毒の可能性など微塵も気付いていない。
「殿下もきっと、お喜びになられます!」
殿下? 誰?
「ええ、そうね」
適当に話を合わせておく。
「疲れたわ。悪いけど、一人にしてくれる?」
「はい。失礼いたします」
再び一人になる。
「……殿下って誰?」
記憶をみてみるけど、それらしい人の姿は見当たらなかった。
無言のオリヴィエから感じるのは、かすかなためらい。
「話したくないなら別にいいけど」
【……帝国の第三皇子、ウィレム殿下のことです】
「ウィレム……。そいつが何?」
【私が人質として帝都に向かったのは、ウィレム様の妃候補としてなんです】
「道理で人質にしては待遇がいいわけね」
私は布団から出ると窓を開け、バルコニーに出る。ここからは庭園を一望できる。
今は初夏。青々とした葉や名前の知らない花々が庭を彩っていた。
よく晴れた午後。そよ風が吹くと気持ちが良かった。
しかし引っかかることはある。
「でも妃候補は分かったけど、それならどうしてあんたの記憶にはそのウィレムが出てこないの? 目覚めたっていうのに見舞いにもこないし」
【一度もお会いしたことがないんです】
「妃候補なのよ?」」
【……そう言われてこちらに参りました。しかし一度もお姿を見たことはありません。ですが、その勇猛ぶりはつとに有名です】
第三皇子ウィレムは、オリヴィエの祖国であるイーリアス王国をはじめとした連合軍との戦争で、帝国の指揮官として活躍。その八面六臂の活躍により、帝国は連合軍相手に大勝。
それまで北方でくすぐっていた小国に過ぎなかった帝国は今や、大陸の中原に覇を唱えるまでに勢力を拡大した、らしい。
「そいつかな。毒を盛ったのは」
【まさか。ウィレム様がもし私を邪魔に思われるのでしたら、そんな小細工など使わずとも適当な理由をでっちあげて処刑すればいいのです……】
「……あんた、さらっと怖いこと言うのね」
【? そうですか? でも、そちらのほうが簡単です】
「……まあ、たしかに。それにしても暇ね」
私は部屋に戻ると、積み上げられていた本を一冊無造作に取ると、ぱらぱらとめくる。
「……植物図鑑? これ、あんたの?」
【そうです】
「ふうん。こんなに本ばっかり積み上げてどうするの? 全部、読み終わる頃には皺クチャのばあさんになってるんじゃない?」
【この部屋にある本は全部、読み終わっているものばかりですから。その中でもお気に入りの本なんです】
「は? これ全部?」
【そうです……けど】
オリヴィエはさらっとすごいことを言ってのけた。
どの本も鈍器と見紛うばかりの分厚さ。薄っぺらいコミックさえ、まともに読み終えたことなどない私からすると、理解できない。
「ここまで来ると本好きっていうより、憑かれてるっていうレベルよ」
【……私には本しかありませんでしたから】
その言葉に、引っかかりを感じた。オリヴィエとはつい数十分前に知り合ったばかりだけど、何となくしゃべり方から人柄は分かった。
思慮深いけれど臆病。知的探求心はあるようだが、それを使うだけの器用さがない。
そして自分を含め他者を嘲ることはしない。しかし今の言葉には自嘲の響きがこもっていたのだ。
その時、トントンと扉をノックする音がした。部屋にいる人物に対する配慮が感じられる控え目なノック。
「アンネ?」
「はい。入ってもよろしいでしょうか?」
「構わないわ」
失礼します、とアンネが入って来ると、深々と頭を下げた。
「ただいまテオドラ様、ルイーザ様、マリュー様が、是非、オリヴィエ様のお見舞いをしたいと部屋を尋ねていらっしゃいました。いかがいたしましょう」
テオドラ・グリュー・ラゴヴィッツ。
ルイーザ・シオーネ・モンテロ。
マリュー・セノマ・グイ・コンラード。
「どうする?」
「はい?」
「ああ、今のは独り言」
「はあ」
【会ったほうがいいと思います。いつ城内で鉢合わせる分かりませんから。友好的に接しておくことに間違いはないかと】
テオドラたちと過ごした記憶が、一番最新の記憶、
お茶会をしたメンバー。そしてオリヴィエは彼女たちが苦手だとはっきり分かる。
「会うわ。入れて」
「かしこまりました」
アンネが部屋を出ていく。
【オリヴィエ様、マリュー様、ルイーザ様はみんな、私と同じ人質として帝国に送られた方です】
「……ということは、そいつらも妃候補ってこと?」
【そうなります】
「なら簡単じゃない? 毒を盛ったのは、その三人の中の一人。ライバルを消せば、自分こそ妃に選ばれるかもしれないって」
そして悲しいかな、オリヴィエはおそらく捕食者の標的になりやすい小動物的な人間だ。
【……それは違うと思います】
「どうして?」
【ウィレム様はどなたにも興味や関心を示されていませんから。わざわざ私に毒を盛っても意味は……】
その時、扉が開き、アンネを先頭に、三人の着飾った女たちが部屋に入ってくる。
ブロンドヘアに青い瞳がテオドラ、ブラウンヘアに髪よりも深い茶色の瞳がマリュー、そしてピンクブロンドヘアに黄色味の強い瞳がルイーザ。
それぞれが胡散臭さを絵に描いたような笑顔を、顔面に貼りつけている。
笑顔の裏で何を考えてのか定かじゃない。
任務のために身分や外見を偽り、潜入したことは何度もあるけど、こういう内面を覆い隠す術を身につけた上流階級の女のいけすか無さだけは慣れることがない。
これだったら自分の欲望に忠実で、自分の得る利益を最大化することだけが目的の犯罪者のほうがよっぽど分かりやすいし、扱いやすい。
「皆さん、寝巻姿で申し訳ありません……」
私はオリヴィエの声に耳を傾けながら、オリヴィエを演じる。
「いえ、いいのよ。顔色がだいぶ良くて安心したわ」
テオドラがやんわりと言うと、
「ええ。本当に」
「あなたが意識を失ったと聞いて、とても怖ろしかったもの」
マリューとルイーザが口を開く。
力関係ははっきりしているらしい。テオドラが一番で、マリューが二番、次がルイーザ。そしてドベが、オリヴィエといったところか。
「すぐにお茶をお持ちします」
アンネが部屋を出ていこうとすると、テオドラが止める。
「いえ。顔を見たかっただけだからすぐに失礼するから無用よ。――体調はいかが?」
「お陰様で……どうにか」
「そう、良かったわ。お医者様は何が原因だと?」
「過ごす環境が変わったことによるストレスが原因ではないかと仰っていました」
「あぁ、そうね。あなたがここに来て、まだ半年ですもの。そういうこともあるわ。ねえ、皆さん」
そうですね、とマリューとルイーザは湖心銀着ぶりを遺憾なく発揮して頷く。
「ゆっくりお休みになって。元気になったらまたお茶をご一緒しましょう」
「ありがとうございます」
「では私たちはこれで」
テオドラたちが踵を返すと、アンネが見送りに部屋を出ていく。
扉が閉まるのを見届ける。
「あいつらは何?」
【テオドラ様はラゴヴィッツ王国の王族です。一番最初に帝国に人質としていらっしゃいました。それからマリュー様はコンラード王国の王族です。そしてルイーザ様はザウロ共和国という商人の方々が合同で統治されている国の元首の娘さんで、私より半年ほど早くこちらに……】
「全員、帝国に戦争で負けた?」
【……そういうことです】
私は小さく息を吐く。
「――また発見があった」
【何ですか?】
「なぜかは分からないけど、私の特技は活きてるみたい」
【特技?】
「私、並外れた嗅覚があるの」
戦災孤児である私が暗殺者として育てられたのは偶然じゃない。
ハンドラーに犬並の嗅覚と聴覚を見出されたからだ。
「さっきのあのテオドラたちからはきつめの汗の匂いを感じた。一人じゃない。全員からよ」
【それが何か? 今日は暖かいですし……】
「緊張の汗よ。緊張した時に出る汗と、体温を調節するための汗とでは匂いが違うの。つまりテオドラたちの見舞いはただ様子を見に来ただけ。本当は、自分たちの犯行がばれていないかの偵察ってところね。毒を盛ったのは、あの三人全員」
【そんな……】
「信じられない? だったらどうして見舞いで緊張する必要があるの? お茶会をしたんだし、あんたが連中を緊張させるような人間とも思えない」
【そ、それは】
オリヴィエは明らかに戸惑っている。
【でも証拠がありません。何の理由もなく毒を入れるはずがないですから】
「任せて。ああいう連中は少し痛めつければべらべらしゃべる」
【な、何をするおつりですか!?】
「知らない方がいい。ま、任せて。蛇の道は蛇ってね」
【やめてくださいっ】
「どうしてかばうの?」
【庇っているんじゃありません。下手に揉め事をおこせば、私の国にもその影響が飛び火してしまうかもしれません……!】
「悪いけど、そうはいかない。これはあんただけの問題じゃないんだから。私の問題でもあるの。毒殺を警戒しながら過ごすなんて真っ平よ。問題解決はさっさと行うべき。それに、オリヴィエとして振る舞えるのは私だもの。あんたに、私は止められない」
私は布団から抜け出すと、万年筆を手にする。尖ったものなら、何でも使える。そういう訓練を積んでいる。
【ダメ……!】
オリヴィエの悲鳴にも似た声が頭で反響した瞬間、とんでもない激痛が全身を走り抜け、思わずうずくまってしまう。
「っ!?」
頭を鈍器で殴られたような感覚に陥り、フラつき、ベッドに倒れこんでしまう。
【ユリアさん!? 大丈夫ですかっ!?】
「だ、大丈夫ですか? い、今の、あんたがやったんでしょ」
私は肩で息をする。
【今のって、何があったんですか? いきなりユリアさんが倒れられて……】
「……あんたがダメって叫んだ瞬間、とんでもないレベルの頭痛が……」
肩で息をする。痛みは嘘のように消えていた。
「お嬢様、お茶を……」
その時、アンネがティーセットを運んでくる。彼女が見たのは肩で息をする私の姿。
「オリヴィエ様! すぐにお医者様を……」
「だ、大丈夫だから」
「いけません!」
アンネは私の話にもとりあわず、部屋を飛び出していった。
まったく……。
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