第2話

 真っ暗な世界で私は漂う。


 手足の感覚はない。


 腕を、足を動かそうとしても何も起こらない。


 目を開けているのか閉じているかさえ、分からない。五官が働かない。


 死んだの?


 記憶を探ってみても何も思い出せない。どうしてこんな場所にいるのか、この場所に来る前は何をしていたのか。頭が真っ白で考えられなかった。


 そこに声が降ってきた。


 ――苦しい……――あぁ……誰か、助けて――……。


 それは私の声ではない、それだけは分かった。


 その声に滲むのは恐怖、焦燥、そして苦しみ。それが少女の声として認識できた。


 ――こんなところで……私は……何もやれてない……何もできないまま……このまま、死ぬなんて――……死にたく、ない――……。


 切れ切れの、涙ながらの誰にも届かぬ懇願。


 淡い光を感じた。それはまるで春の陽向のように温かい。


 光に触れると、指先に感覚が戻っていく。


 自分の手足の、身体の、意識が復元されていく。


 そこではじめて私は自分が目を閉じていたことに気付いた。


 声は聞こえ続けている。


 温かな光に向かって、右腕を伸ばす。何かを掴み取ろうとするみたいに指先に力を入れて、動かす。


 瞼を開ける。光に包み込まれる。


 視界が真っ白に塗り潰された。



「――――っ……」


 白い光に目が馴染んだ先にあったのは、高い天井。目を開けた私は、高々と右手を持ち上げていた。


 私はベッドに寝ていた。左手側には大きく取られた窓。レースのカーテンから心地よく、淡い日射しが差し込んで、ベッドに陽だまりを作っていた。


 身体を起こす。


 私は……。頭の奥が鈍く痛む。全身が気怠い。それでも身体に問題はない。


 確かに谷底に落ちたはずなのに。五体満足なんてありえないはずなのに。


 まるで何事もなかったみたいだった。


 ここはどこ?


 部屋を見回す。


 私の目にも分かるくらい高級感のある調度品。


 しかし調度品より何より目を惹くのは、床に摘まれた分厚い本の山。その山は十はあるだろうか。


 ベッドから下りる。素足で踏むカーペットは今まで知らないくらいの厚みがあってふわふわしていて、そのせいで足を取られて転んでしまいそうになる。


 自分の格好を見る。


 緑色のワンピースタイプの寝着だ。


 さらさらして手触りは良く、高級感のある光沢を浮かべる。


 今まで私が着たことのあるものは全部ごわごわしていて、明らかな安物だった。


 そのせいか、かえって着心地が悪い。


 全部脱ぎ捨てたい衝動に駆られながらも、今の優先順位を考える。


 ここはどこか、どうして私は生きているのか。


 頭の働きは決して悪くはない。


 ただ思考はまだ回復の途上。


 霧がかかったみたいに思考がうまくまとまらない。


 まるで自分の身体ではないような気がした。これはきっと、寝ぼけているからだろう。


 私はこれまで手のこんでいそうな金色の縁取りのついた姿見の前に立つ。


「は……?」


 鏡に映る自分の姿に違和感を覚えた。いや、これは最早違和感という言葉では片付けられない。


 右手を持ち上げると、鏡の向こうでも同じように右手を持ち上げた。


 手で顔に触れる。細い首筋を、ふっくらとした頬を、形のいい耳を。腰まで流れるような真っ赤な髪を。


 そして鏡の中の自分と目が合う。その目は潤んだ緑色。まるで宝石のように美しい。


 夢だ。これは夢。


 目をぎゅっと閉じ、それからもう一度開く。しかしそこにいるのはあいかわらず、同じ少女。


 これは私じゃない。十六年間、見て来た姿ではない。


「私は黒髪で、榛色の瞳で、それから細面で、なによりもっとスタイルは良かったし。腰だってもっとくびれているし、胸だって……」


【そんな言い方、ひどいです……】


 !?


「誰っ!?」


 私はサイドテーブルに置かれていた万年筆を逆手に握ると、警戒の視線を周囲へ向け、いつでも飛びかかれるように態勢を低くした。


 しかし無断に広い寝室には誰の姿もない。


 気のせい? まだ記憶が混乱している?


【あなたは誰……なんですか?】


「!!」


 気のせいじゃない。声は確かに聞こえた。


 声は――私の中から、聞こえている。


 私は鏡を見た。鏡の向こう、自分自身を見つめ返す緑色の視線にあるのは怯え。


 私は右手で鏡にそっと触れた。当然、鏡の中に人物も同じ行動を取る。


 でも鏡の中の人物の表情と、今、私が感じている感情は全く違う。


 私の今の感情は不審。警戒。


 でも鏡の中の人物の感情は恐怖と混乱、困惑。


「……あんた、誰?」


【あなたこそ誰なんですか。私の身体で何をしているんですか……】


 これは何か悪い夢だ。そうじゃなきゃおかしい。ありえない。


 私はベッドに俯せの格好で飛び乗ると、枕をかぶり、何も聞こえないよう耳を覆う。

【こ、答えてください……。あなたは誰なんですか? どうして私の身体にいるんですか?】


 どれだけきつく耳を塞いでも、怯えた少女の声はつきまとう。消えてはくれない。


 私は観念し、枕を放り出すと身体を起こす。


「……これは現実……?」


【――だと、思います……】


「あんたの名前は……」


 瞬間、突然何かが降ってくる。


 それは幾つもの記憶の断片。いくつもの断片が結びつき、一つの場面を生み出し、たくさんの場面が濁流のように、私の中に注ぎ込まれる。


 バスタブがお湯で満たされていくように、無遠慮に私の中に入って来る。


「……!」


【だ、大丈夫ですか!?」


「……お、オリヴィエ・リューンズバウ・イーリアス……」


【どうして私の名前――】


 それだけじゃない。


「あんたは人質として、この国に送られてきた」


 この国の名前はキャスヴァリア帝国。オリヴィエの母国であるイーリアス王国は帝国との戦争に負け、人質として王の娘であるオリヴィエを差し出した。


 声は言葉を失ったみたいだった。


「オリヴィエ。あんたの記憶が私に流れ込んできた。つまり、あんたにも私の記憶があるんじゃない?」


 しばしの沈黙が下りる。


【あなたは…………ユリア】


 オリヴィエはたどたどしく呟く。


 やっぱりそうなのだ。何故かは分からないけど、私たちは身体だけではない。


 記憶をも共有している。本当に意味が分からない。


 でも分からないこともある。


 この世界は一体なんなの?


【あなたは…………あぁ、嘘……!】


 声はしばらく聞こえなくなった。


 私はオリヴィエの反応を、彼女が落ち着くのを辛抱強く待つ。


【…………人を、殺して…………】


「私は暗殺者よ。当然でしょ」


【あ、暗殺……者】


 そしてもう一つ分かったことがあった。


「苦しい、何もできないまま死にたくない、誰か助けてって言ってたのは、あんたね」


【……っ】


 かすかに息を呑む気配。


【……どうしてそれを】


「分からない。でもあんたの声が聞こえた」


 私がたどることができるオリヴィエの最期の記憶は、お茶会。


 彼女はそこで終始聞き役で、早く部屋に戻りたい――そればかり考えていた。


 そして部屋に戻ってしばらくして熱っぽさを覚え、そして倒れた。


 それを使用人が発見し、大騒ぎになったらしい。


 オリヴィエはここ数日高熱を出し、医師の診察も功を奏さず、ここ数日はずっと意識不明の状態が続いていた。


 それが今日になって意識が戻ると同時に、何故か私がオリヴィエとして目覚めた。


 それも、私の中にはオリヴィエの意識も同時に存在している――。


「……はっ」


 自分の身に降りかかったことのあまりの非現実的さに、思わず笑いが漏れてしまう。


【ユリアさん、どうかしたんですか?】


 オリヴィエはおっかなびっくり聞いてくる。この状況に戸惑っているのは私だけじゃない。意味が分からず、それも身体まで失った彼女からしたら、悪い夢でしかないだろう。


 私はベッドの縁に腰を下ろす。


「……理解が追いつかなくて笑えたの。一体何なのって……。私は追っ手に襲われ、崖から飛び降りた。あの高さじゃ、どんな奇跡が起ころうとも助かるはずがない。私は死んだはずだった。そしてあんたも……死ぬはずだった」


【……はい】


「でも生きてる。二人とも。まあ、奇妙な状況ではあるけど。ね、身体は動かせる? 右腕を動かしてみて」


【え、あ、はい】


 しかし力なく垂れた右腕はぴくりともしない。


「ダメみたいね。つまり肉体は私がコントロールできるってことか。ね、こんな状況になったことに思い当たる節はある?」


【……ありません】


「私も」


【ユリアさん、あなたは私の知らない世界から、いらっしゃったんですね】


「記憶を覗いたの?」


【ごめんなさいっ】


「別に怒ってない。記憶を覗けるのは、お互い様なんだから」

 覗くという表現を使ったけど、実際は本をめくるのに似ているかもしれない。それも文字のない、絵本だ。そこから見たい場面を探し当てる。


「――私はアメリカのニューハンプシャーで育った。アメリカなんて、知らないわよね?」


【知りません……】


「私も王国だの帝国だの、知らないもの。つまり私の魂は、別の世界に迷い込んだみたいね」


【……理解が早いんですね】


「理解したわけじゃない。でもそう思うしかないでしょ。これは夢? いいえ、現実。どう考えても】


 腕をつねってみる。痛い。リアルな痛み。これは夢じゃない。夢みたいに馬鹿馬鹿しくって現実感がない状況だけど、間違いなく現実だ。


 私たちはひとまず、自分たちの現状を整理することにした。


 分かったことは、互いの心までは読めないということと、知識の共有はできないということ。そして過去の記憶と言っても、その時に何を考えていたかは分からない。まるで本でも読んでいるように交わされた会話しか分からない。


 整理を終えると、私はすぐにもっと重要なことに考えを移す。


「――で、心当たりは?」


【何の心当たりですか?】


「昏睡状態のまま目覚めなかったのは病気だ思ってるの?」


【違うんですか】


「毒を盛られたのよ」


【どうして分かるんですか!? 記憶で分かったんですか?】


「記憶で分かるんだったら、あんたが気付かないはずないでしょ。この気怠い感覚からして、明らかでしょ」


【ユリアさんも、同じ経験を?】


「盛られてない。飲むよう言われたの。でもそれは毒に耐性をつけるための訓練。少しずつ、死なないように。死にはしないけど体調を崩し、何日も寝込むことなんてざらだった。そのあと今みたいに気怠さと熱っぽさが残るの」


 毒は植物性、動物性とさまざまな種類を処方された。


【…………】


「オリヴィエ。それで……」


 その時、扉が音をたてて開く。現れたのは、メイド服姿の少女。


 少女は茶色い瞳を大きく瞠る。


「姫……様……あぁ……先生! 先生! 姫様が! 姫様が、お目覚めにぃぃぃ……!!」


 少女は手にしていた洗面器と清潔なタオルをすぐ脇に置くと、寝室を飛び出していった。


 アンネ・ルイーズ。


 下町に住まう娘で行儀見習いとして城勤めをしていて、身の回りの世話のためにオリヴィエの侍女としてこの国についてきた。


 ブルネットのショートで、クリクリした目をした愛玩動物のような雰囲気がある。


「騒がしい子ね」


【でもすごく可愛いんですっ】


 オリヴィエは笑みまじりに言った。


 それが私が聞いた、はじめての彼女の明るい声。

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