王女殿下は双つの顔を持つ
魚谷
第1話
折り重なりあう木々の隙間から、真冬の青白い月明かりが地面に注ぐ。
刺すような寒さの中、裸足で地面を踏みしめ、森を駆ける。
寒さのせいで痛みなんてとうの昔に感じなくなっていた。
はぁ……はぁ……はぁ……っ!
自分の洗い息遣いを、まるで他人事のように聞く。
呼吸をするたび、白い息が漏れた。
館を脱出し、どれだけ走っただろうか。
三十分か、一時間か――もうとっくに時間の感覚はない。
歩みを止めないのは、鋭敏な聴覚が確かに追っ手の気配を感じているから。
がっしりとした体格の男が十人、そして訓練された犬が五匹。
男たちは銃で武装している。
訓練され、私を殺すために用意された刺客――。
『猟犬』である自分がまさか狩られる側に回るなんて。
運命の皮肉に、思わず片頬を持ち上げ、笑ってしまう。
私の任務は暗殺。
時に搦め手から、時に身分や外見を偽って正面から堂々と、ターゲットに近づき、殺す。
幼い頃から殺す為の訓練を受け、はじめてターゲットを始末したのはもう十年くらい前か。
それから何十人という人間を始末してきた。ターゲットがどうして死ななければいけないかなんて考えたことなどない。
自分の育ての親であり、暗殺の手ほどきを受けたハンドラーに写真と資料を渡されればそれが合図。
淡々と務めを果たす。それだけ。
今回もそうだと思った。
ターゲットは人里離れた館に引きこもる大企業の創業者。
警備システム、死角、ターゲットの一日のスケジュール――それさえ分かれば、後は侵入し、始末するだけだった。
息をしたり、歩いたりするのと、同じようにすればいい。
しかしいざ部屋に侵入すると、いるべきターゲットはどこにもいなかった。
侵入した部屋の窓には鉄の格子戸が下り、扉は電子ロックがかけられ、閉じ込められた。
全て私を始末するために用意された舞台だったのだ。私こそターゲットだった。
そこで殺されるはずだった。でもそうはならなかった。
私を始末するためおそらく同業者であろう男どもが部屋に飛び込んでくると同時に、同業者の一人を倒し、部屋を脱した。
廊下に面した窓を突き破り、そしてあとは無我夢中で駆ける。
途中で足音を殺すために靴を脱ぎ、それからはただ走り続けた。
これまで始末してきたターゲットたちと同様、死ななければいけない理由など知らされない。
これまで私が始末してきた連中はみんな、こういう気持ちのまま死んでいったのか。
そんなことを頭の片隅で考える。
恐怖はない。そんな感情なんてとうの昔に消えた。
あるのは戸惑い、何故私を殺す必要があるの?という当然の疑問。
自分の記憶をどれだけひっくり返しても思い当たるものはなかった。
全ての依頼を滞りなく済ませた。
唯一、思い当たることを無理矢理にでも探すとなると、私を仕込んだハンドラーが死んだことだろうか。事故だった。
別の仕事を済ませるために出たっきり戻らなかった、私にその持ちうる全ての技術を仕込んだ男。
はじめてその死を悼んだ。父であり、師であり――。
私に今回の依頼を持って来たのは、酷薄な目をした爬虫類のような男だった。
得体の知れないものでも見るような眼差しを向けてきた男。汚いものでも放り投げるようにターゲットの資料を寄越してきた。
音がした。
風が通る、嘆きの声ような音。そこに混じる川の音。
傷だらけになった足を止めた。
藪を掻き分けた向こうは崖。
見下ろすと、二十メートルほど下に糸のような川が見えた。
肩で息をする。
獲物を求める猟犬どもが私の匂いを嗅ぎつけ、確実に近づいてきていた。
「私もここで終わり、ね……」
そう独りごちる。
ハンドラーは死ぬ寸前、何を考えたのだろう。
何かを考える暇もなかったのか、それとも凍えるような寒さのように徐々に全身が蝕まれるような感覚を覚えたのだろうか。
私が思ったのは、あぁ、ここで行き止まりか、というもの。
子どもの頃に遊んだ迷路で自分が選んだ道が不正解だった時と同じ――。
あの時はすぐにやり直せばそれで済んだ。でも今日はそうはいかない。
ハンドラーは、自分たち暗殺を生業にする人間はロクな死に方はしないと口癖のように言っていた。
その時は、そんなものかと思って聞き流していたけど、まさかこんなにも早くそうなるなんて想像もしていない。
今さら別の道を探す余裕はない。
これまで私が自分の意思で何かをしたことなどなかった。
いつも誰かの命令で動いてきた。そこに意思などなかったし、必要なかった。
まさか初めて自分の意思で選ぶことになるのが、死に方だなんて、暗殺者の最期に相応しい。
踵を返し、追跡者たちと刺し違えるか。全員は無理でも何人かは道連れにできるだろう。
もしくは、このまま谷底に落ちるか。
落ちた瞬間は痛いだろうけど、すぐに逝ける。
深呼吸をする。
残念ながら迷っている暇はない。
「……っ!」
私は一歩大きく踏み出す。
その先に踏みしめべき地面はない。
全身が風に包み込まれる。黒髪がばさばさと大きな音をたて、風で掻き混ぜられる。
私は落下しながら、体勢を変えて空を仰ぐ。
つい数秒前まで自分がいた崖の縁に人影がいて、谷を見下ろしている。目が合ったかは分からない。
天国も地獄も、私は信じない。
でも……それでも、もし仮に輪廻転生というものがこの世界にあるとするならば。次の人生では誰の命令にも従う必要のない、自分だけの人生を歩んでみたい――。
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