共感の七分前、傍観の二年後

「ふう…………」


 分厚い背表紙を閉じ、紅葉の隣に置く。目を閉じて思い浮かべるのは先程の情景。


「よかった……今回も……」


 読了後の何とも言い難いこの達成感というか爽快感が、たまらなく好きだ。物語の世界から離れて現実に戻ってきたが故に、その良さが増して感じられるような、作品との間にか細い糸が繋がってるような、そんな感覚。同時に、次巻への期待ともどかしさも生まれるが。


 今読んでいたのは最近巷で話題のファンタジー小説である。王道をいくようなバトル展開だけでなく、秀逸なコメディや濃密な恋愛描写にも定評があり、老若男女問わず人気となっている。そして私はこの作者のデビュー作から読んでいたので、古参として少しだけ鼻が高い。


「秋だなあ……」


 頭上の紅葉の隙間から、優しく木漏れ日が射している。少し遠くを見れば金色のイチョウがザワザワと揺れているし、仄かに銀杏の香りもする。これがかつて人間から『落命の地』と呼ばれていた魔王城の一角とは、とてもじゃないが思えない。いい場所である。今日はルシファルも会議で外しているので、思う存分羽を伸ばしているのだ。風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない、静かな昼下がり。贅沢な時間である。


「まふさままふさままふさまー!!」


 贅沢と静寂を打ち砕く声が聞こえた。声の方に目をやると、笑顔のグレラくんがこちらへと特攻してきている。ブンブンと手を振っているので、軽く振り返してみる。


「ご一緒していいっすか!?」


「あーうん、大丈夫です」


 頷くとグレラくんは隣に腰かけた。近いよ。距離感が。別にいいんだけど。


「というかグレラくん、今会議中じゃなかったっけ?」


「魔王様に退出を命じられたので抜けてきました!」


「ええ……?」


 何をやらかしたんだろう。


「『貴方を見てるとどうにも、考える気が削がれるわ』って仰ってたっす!」


「わかるなあ……」


 こればかりは嫁に同意だった。や、別に目の前の彼への悪口ではない。それも一つの長所であり、少なくとも私は魅力だと思う。


「まぁとりあえず、お茶でもどうぞ」


「ご相伴に預かります!」


 勢いよく敬礼のポーズをとるグレラくんに苦笑しながら、紅茶を注ぐ。特注の魔陶器に入っているため、淹れてから数時間経っているのに温かい。


「ぷはー、美味いっすね! なんかすげーいい香りします!」


「それはよかった。茶葉はちょっと拘ってるからね」


「おかわりお願いしてもいいっすか!」


「いや、それは別にいいんだけど。水でも飲むようなペースで流し込んでるね君」


 あまり口うるさいことは言いたくないが、紅茶は香りと味を楽しみながらのんびり飲むものでは……? まあ、それが好きなら否定はできないけれど。

 そんなことをやんわりと伝えた。


「そういうものなんすねえ……次からは気をつけます!」


「いや、まあそんなに気にしなくていいよ。その方が美味しいんじゃないかなーっていう私の好みに過ぎないからさ。好きなように飲むのが一番ですよ」


「いえいえ、魔夫さまが言うなら間違いないっすよ。すみません、俺、何にも知らないもんで」


 常に明るい様子だった彼の表情に、少しだけ影が差した。それを誤魔化すように彼は悲しく微笑んだ。


「何かあるなら、聞くよ? 話したくないことなら大丈夫だけど」


 髪を少しだけかいて、彼は重々しく口を開いた。


「……その、本当は俺、こんなところにいられる人間じゃないんす。生まれは貧民だし、大した知識も教養もないし。能力を買われて今はここに置いてもらえてますけど、実際大したことしてないし……」


「グレラくん……」


 呆れたように、大きく息を吐いた。


「そんなこと気にすんな! 私だって孤児だった、でも今はここにいる。そしているからには、自分にできることをするだけだろう。間違ったって学べばいいさ。私なんて、未だにテーブルマナーもままならないよ」


「魔夫さま……そうっすよね! 俺も、魔夫様みたいに頑張ってみるっす!」


「うん、その意気だ」


 大したことは言えなかったけれど、グレラくんのなかで何か軽くなるものがあったのなら何よりである。それにしても、彼も貧民の出だったのか。最近はマシになったとはいえ、官僚の上層部なんてほとんど貴族社会みたいなものである。そんなところに似た境遇の人がいるというのは、少しばかりシンパシーを覚えた。


「だから土とか食ってたのか……」


「や、あれは単純にここの土が美味いだけっす!」


「偏食家すぎるでしょうが」


 無邪気に笑うグレラくんに思わず苦笑した。笑ってる時の彼はいい意味で子どもっぽくて好きなんだけれど、そういえば歳はいくつなのだろう。


「今年で……28っすね!」


「えっ、本当ですか」


 思わず敬語になってしまった。元服しているのはわかるけれど、そこまで歳が離れているとは思わなかった。偉そうに説教じみたことをしたのが、なんだか恥ずかしくなってきた。


「あっ、年齢なんて別に気にしなくて大丈夫っすよ! 魔夫さまの方が格上っすし、何より尊敬してるんで!!」


「それじゃあお言葉に甘えさせてもらおう」


「魔夫さま! もうひとつ聞いてもいいですか?」


「私に答えられることなら、どうぞ」


「失礼を承知でお聞きするっすけど、今の魔夫さまの立場は魔王さまあってのものじゃないですか」


「そうだね」


 肯定する。それは事実でしかないし、それに甘んじている以上、否定するような不快な現実でもない。


「魔王さまはかなり強引に魔夫さまとの婚姻を進めて、一時は魔夫さまから片時も離れないようにするために、王の座を退こうとしたとも聞いたことがあるっす。そんな魔王さまと魔夫さまは、一体どこで出会ったんすか?」


「……それは」


 言い淀む。真っ赤に染まる街、折れた花束、瓦礫の山。その頂点に立つ、暗い瞳の銀髪の女。その腕の中の────


「あ────な────ーた──────!!!」


 束の間の静寂を打ち破る、死ぬほど喧しい声が響いた。やれやれと嘆息し、グレラくんに「また今度ね」と囁いてあちらへ向かう。夫婦の間に挟んで気まずくする訳にはいくまい。気づけば日は傾き、燃えるような西陽が差し込んできていた。

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