第40話
ダメだとわかっていても、人はどうしてダメな領域に足を踏み入れてしまうのだろう。
お酒やタバコは、満20歳からとなっていても、隠れて試しにやってみたくなったり、タバコも体に悪いとパッケージに警告して書いてあっても吸いたくなる。
お酒も妊娠や授乳中に飲むと影響ありますと言われて欲に負けて、間違って飲んでしまうこともある。
欲には勝てないことがある。
真面目になんでもかんでも規則通りに生きられていたら、警察なんて裁判所なんて必要ない。
ロボットに組み込まれたプログラミングのようにミスのない生き方していたらそれはもう人ではない。
人間だから、間違うこともあるし、はみ出すこともする。
幼少期から優等生で大人の言うことは聞いてきたつもりだった。
もう、それで疲れていたのかもしれない。
少しくらい世間一般でダメなことしても、それくらい平気だろうと感じていた。
地盤としての仕事というレールははみ出してないし、プライベートの自分自身のことくらい脱線しても軌道修正できるはずと頭の片隅で考えていた。
ーーーお店の定休日である水曜日。
今日から大学に復帰すると遼平は出勤していなかった。
少し寂しさを感じながら紗栄はお店の中を掃除していた。
お客さんが来なくても、毎日掃除だけは欠かさなかった。
テーブルの下に落ちていたゴミを拾おうとすると、入り口のドアのベルが鳴った。
鍵を閉めてたはずなのにと起きあがろうとしたら、テーブルの角に頭をぶつけた。
「いったぁー。」
頭を抑えて、見上げると、メガネとスーツを着た懐かしい姿をした男性がいた。
見間違えたかと目を擦ってもう一度見た。
「紗栄!」
かがんだ紗栄の後ろからハグをしたのはさとしだった。
「ただいま。」
懐かしいマネージャー時代と同じメガネとスーツの格好をしていた。
白髪混じりだった髪を染めてきたのか、少し明るめの茶色になって、若返っている。
でも、剃り忘れた左顎の髭が少し生えていた。
紗栄は久しぶりの格好を見て、懐かしくあの頃の気持ちが蘇るようだった。
約2週間振りに帰ってきて、七夕の織姫彦星のように荷物を置きっぱなしにして後ろから抱きついたまま離れなかった。
「おかえり。」
「掃除してたの? 頭ぶつけてたけど大丈夫?」
「うん。平気平気。…なかなか最近綺麗に掃除する時間取れなくて定休日は念入りにと思ってて…って、電話くれれば車で迎えにいったのにわざわざタクシーで帰ってきたの?」
さとしは、荷物に手をかけて、いそいそとかたづけようとした。
「別にいいじゃない。荷物もいっぱいだし、待ってる間に誰かに声かけられても大変でしょ? メガネで変装してても分かる人は分かるから。」
ガタガタと音を立てて、荷物を運び、メガネをカウンターに置いて、そのまま、2階のリビングに走って逃げた。
紗栄は、大きなため息をついた。
「ここまでのタクシー代、いくらかかると思ってるんだか…全く、もう。」
ブツブツ文句を言いながら、紗栄は消毒スプレーをかけながらテーブルをタオルで拭いた。
何となく、さとしは、この2週間、紗栄のそばを離れていたことに焦燥感を抱いていた。
結婚してからこんな長い時間そばから離れたことがなかったし、お互いにライン交換さえもしてなかった。
花鈴にあれほどラインの文面チェックをされたのに、送信ボタンを押す勇気もなかった。
行っておいでと言ったのは紗栄だったが、最終的に決めたのは自分自身だったし、遼平を大学を休学させてまで働かせたのは紗栄の本当の気持ちを知りたかったのもあった。
2人きりにさせて、実は自分のことは好きでも何でもなくなってしまったんじゃないか。
そう感じていても、結婚しているという証だけはとっておきたくて、ずるい考えだったが、紗栄にとっての自分は二番煎じでもいい。
そのままでもいいから、少しでも心から幸せな時間を過ごしてもらいたかった。
空が亡くなってからずっと紗栄は心から笑っているところを見たことがなかった。
ほんの一瞬だけ、遼平と仕事してる時だけ見せた笑顔があったのをさとしは見逃さなかった。
この悲しみの雪を解かしてくれるのはもしかしたら、遼平なんじゃないかと悟っていた。
それでも本当の気持ちをまた隠したまま、さとしはいつも通りの生活を続ける。
自分の想いが例え届かなくても幸せでいてくれたら、そして、横で存在しているだけで充分と思っていた。
「ねぇ、今日、どこか行きたいな。せっかく定休日だし。」
1階から、紗栄は声をかける。
さとしは荷物を取り出して洗濯物の整理をしてから、普段着に着替えた。
小言を言われるのがこわいから慌てて、荷物を綺麗に片付けた。
上に登ってきた紗栄は
「お? 仕事が早いね。感心感心!」
「そりゃあね。誰だかさんに注意されちゃいますから。はい、終わりましたよ。どこに行くって?」
キャリーバッグの蓋をパチンと閉めて、クローゼットに入れた。
ふとカレンダーを見て、日付を確認した。さとしはあることを思い出す。
「あ、紗栄。ごめん。先週、空の命日だったよな。すっかり仕事入れちゃってて、何もできなかった。遅くなったけど、お墓参りしておくか?」
ハッと思い出したように紗栄は驚いて、特に気にしていなかった。さとしの代わりに遼平が慰めてくれていたから浄化できていた。
「うん。どちらでもいいよ。仏壇は無いけど、写真に手を合わせてるからそれで大丈夫。気持ちは少しずつ落ち着いてる。」
さとしはその言葉を聞いて、とても複雑な気分だった。
先月まで毎月時間を見つけては必ずお墓参り行かないといけないと言っていたのに、今日になってもう大丈夫という紗栄。
この2週間会わないだけでこんなにも気持ちが変わるのかと心から良かったと思う反面、自信をなくしていた。
「そ、そっか。んじゃ、とりあえず、写真に手を合わせておこうか。」
さとしは、気持ちを切り替えてすぐに写真立てに飾っていた超音波写真の空の写真に手を合わせた。
「あ、ごめんね。毎月お墓参りしてたのに急に大丈夫って言われてもだもんね。何かお寺の和尚さんに相談したら、気持ちが落ち着いてきたら、お家で拝むのでも大丈夫って言われてて……仏壇とかお墓参りとかって生きている人の気持ちを落ち着かせる意味も持ってるから時間と共に大丈夫になったら、お彼岸とお盆にお参りすれば良いみたい。私、いつまでも引きずりすぎていたみたい。でも、大丈夫になったから、ね。」
紗栄の笑顔がいつもよりキラキラしていることに無性に悔しさを覚える。
さとしは何も言わずに両腕を組むようにして、後ろから紗栄を抱きしめた。
何となく分かっていた。
しばらく付けていなかった耳のピアスを付けていること。
化粧のノリが良さそうで肌艶が良くなっていること。
自分がいなかったのに、元気になっていることが、紗栄と遼平になにかあったんだろうと勘づいていたが、紗栄にとがめることはしなかった。
何も言わずにして
それでも、悔しさは残るため、さとしは、USBのフラッシュメモリーを一度リセットして書き換えるかのように、無言で濃厚なキスを交わし、肩から順番にペッティングしていく。
偶然にも紗栄と遼平が過ごした、すぐ近くの同じ休憩室で朝の明るい時間から体を重ね合わせた。
抵抗することもなく、ごくごく自然にいつも通りの営みだった。
紗栄は天井を見上げて、もしかしたら何か気づいたのかなとよぎったが、そんなわけ無いと首を振った。
ーーー
2人は、数年振りに、車でドライブに出かけた。
お店のことばかり考えて、ろくに外に出かけるということをしたことがなかった。
むしろ、仕事以外で出かけるのは、高校生の付き合ってないと言っていた時期の一緒にカラオケした時以来だったのかもしれない。
紗栄は、学生の時に戻ったように、ドキドキして、嬉しかった。
シネマコンプレックスで映画を見ることにした。映画を見て、気持ちが外向きになれればとさとしの計らいだった。
「ここ、来たことあるっけ?」
東北最大級のショッピングモールだった。中にシネマコンプレックスも入っている。
「多分、初めてじゃ無いかな? なかなか遠いから車でしか来られないでしょう。平日でも混むところだから映画だけでいいよね。」
「そっか。俺も初めてかもしれない。紗栄は何か買い物したかったんじゃないの?良いの?」
「い、いやぁ、買い物しても良いけど、さとしが混むところ行ったら大変でしょ。ファンサービスする気?」
想像して、考えてみた。
さとしは駐車場に車を停めると、ダッシュボードに入れていたメガネをかけた。
コンタクトを外すのを忘れて慌ててメガネを外して、ケースをバックから取り出し、コンタクトを外した。
改めてメガネを掛け直した。
ついでに鏡を見ながら前髪を整える。
後ろの方に寝癖がついていた。
こんな容姿も良くて、モデルとして活躍していても、寝癖はつくし、鈍臭い部分もある。
コンタクトを外すの忘れてメガネもする。
神様は完璧な人間は作らないとも言うけれど、横で見ている紗栄は滑稽で仕方ない。
「視力…よく無いんだもんね。メガネを探すのび太くんだ。」
笑いながら言うと、紗栄は寝癖の髪を直してあげた。
「のび太くんって言うなよ。言うなら出木杉だろ?俺は。あ、あれは、メガネかけて無いね。」
笑いが止まらなかった。
なんて事ない会話で盛り上がっていると、平日にも関わらず、中は人で溢れていた。
見つからないだろうとタカをくくると、自動ドアを開けて、体温を測り、消毒スプレーをかけたばかりで、何故だか視線が痛い。
横を歩く、若い女性や、ご年配のおばさま方にジロジロと横目で見られている。
変な香水でもつけていたかな。
いや、そんなわけないだろう。柔軟剤のせいで振り向かれるんだろう。最近の柔軟剤はいい匂いだからな。
「ねえ、やっぱり。行くのやめない?」
紗栄は進めた足をすぐに止めた。
「え? なんで?」
「あなたの目は節穴ですか?!よく見てよ、周りを。まさか、柔軟剤の匂いで振り向いてるとか言わないよね? 確かに最近、いい匂いのものに変えたけど、そんなんじゃないから。」
小声でいう紗栄。
さとしは周りを見渡すと一気にギャラリーができてしまっていた。
ただならぬ、オーラを感じたのか、お客さんが立ち止まってこちらを見ている。
「ねえ、あれってそうだよね。最近、出てるSATOSHIだよね。なんで、ここにいるのかな。」
30代くらいの女性2人がこそこそと話している。
未だ分かってはいるけど、近寄ってはいない状況。
さとしはぐるりと方向転換して、出口に歩いた。
周りにいたお客さんたちもなぜか付いてくる。
おばさまの1人が話しかけてきた。
「SATOSHIくんだろ? 握手してちょうだい。」
そのおばさまを筆頭に次々と若い女性が集まってくる。
「は、はい。そうですけど、よろしくお願いします。」
自然の流れではにかんだ笑顔で握手をした。
おばさまの圧に負けそうだった。
嘘をつけないさとし。
紗栄は後ろからそっとついていくが、ファンがたくさんいすぎて、どんどん置いていかれる状況になった。
数メートル先に進んで、さとしは、人ごみの中、もう見えなくなった。
紗栄は追いかけるのを諦めてショッピングモールの中を散策することに決めた。
まだ、
自分の顔は昔流行ったけど、今は大丈夫だろうとこちらもタカをくくっていた。
だが、パン屋で品定めしていると同じようにパンを買おうとしていた女性がこちらを見た。
「あのー、SAEさんじゃないですか?」
ここは全否定で行くか、肯定するか迷ったが、可愛い身なりでどこか似てるところがあったため、優しく頷いた。
「あ、はい。そうです。ご存知でしたか?」
背が小さくて、ほんわかした可愛らしい女性だった。
「はい。前からずっと大ファンで写真集とか、SAEさんが着こなしていた服とか帽子とか、すぐ真似して買っちゃうくらいで…今日も同じもの着てたんです。会えて凄い嬉しいんですが、握手してもいいですか?」
女子だけど、ぬいぐるみのようにギュッと抱きしめたくなる。
フワフワしていて優しそうな彼女は手を差し出した。
慌てて、紗栄は両手で握りしめてあげた。
世の中も、幾分緩和されてきたため、グータッチじゃかわいそうだと感じて握手した。
「ありがとうございます。もう手を洗うのがもったいないです。彼氏もSAEさんの大ファンなので、2人で一緒にイベントに参加したこともあったんですよ。もう、モデル活動はされないんですか?」
「いえいえ、こちらこそファンでいてもらえてありがたいです。当分は活動していませんので、もし良ければ、カフェの方に来てもらえると嬉しいですね。」
そんな話をパン屋の出入りの前でしていると、別なお店で買い物してきたらしい彼女の付き添いであろう人が戻ってきた。
「あ、遼ちゃん! ここ、ここ。ねえねえ、SAEさん買い物に来てたみたい。遼ちゃんの大ファンの人…。」
ショッピングバックを片手に颯爽と来たのは、背が高く、身なりも上品で、さとしと瓜二つのよく見たことある男性が近づいてきていた。
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