【第二話】チェリエと誘拐犯
避難口として用意されている為か石積みの古井戸の内側には梯子が備え付けられていて、脱出するのは力仕事と無縁な私の細腕で挑んで登りきれるくらいとても簡単だった。
燦々と太陽の光が降り注ぐ外の空気を胸いっぱいに吸い込んで満喫する時間も惜しく、私は井戸の影に身を潜めて、周囲の状況に目を光らせる。
兵士達の詰め所が近いこの場所は武器庫や厩舎などの建物ばかりで遮蔽物には事欠かない。 人の気配も多く、先程から遠くで鳴り響く笛と警鐘に緊張感で皆の集中力が否が応でも高まっていくのを、古井戸越しに感じる。擦れ合う鎧の耳障りな金属音に追い詰められて無意識に胸の前で両指を組んでしまった。解く。
伝令が事の次第を上官に伝えて、部下達がその命令に応じる。その僅かな隙間を逃さず私は建物の影から影へと移動を始めた。
この場所は、いくつもの隠し通路の出入口の中でカーテンウォールまでの距離が一番短い。正確には城壁をくぐる地下階段へと続く落とし戸が、目視できるまでに、すぐそこにある。視界に入る目印に私の足は更に速度を上げた。
騒ぎの正体が私の出奔と知れば兵士達の警戒の質が変わる。
昔から悪戯ばかりという悪行の積み重ねの結果か、最近は子供の遊びの範疇からはずれつつある私の動きにさえしっかり対応し、確保せんと先回りさえしてくるのだ。専用の特化した手引書を作成し周知徹底させているという本格さで、訓練に洗練された兵士達の動きに私は敗北ばかりである。働きぶりが憎らしいが、こればかりは諦めるしか無い。いたちごっこを繰り返した当然の帰結だ。
いざ、本気で家出をしようと考えた頃は既に多くの
単独での強行突破の手段は、もういくつも残されていない。そんな中での一番成功率の高そうなものを選んだつもりだ。自分の名前さえ賭けているのだから、統率の取れた組織力に今更怖気づく私でもない。
家族しか知らない目印を頼りに、風景に溶け込むように隠された落とし戸を発見した私は、一度素早く視線を巡らせてから、解錠の呪文を唱えて蓋を開けて、後ろ向きで、つまり兵士達の様子を見ながら梯子のような奥行きの狭いステップの急階段を両手を使って降りていく。
蓋を閉めて落とし戸に呪文による施錠を掛けて、独りきりというのも相まって、暗闇に降りていく感覚は底冷えそのもので肌が粟立った。靴底が石床を踏み、重心を正し、階段から両手を離してから、私はそこでようやく一息を吐く。
胸を抑えて、早鐘を打つ鼓動を私に伝えてくる右掌は、じっとりと汗ばんでいた。
一先ず、緊張感から開放されて、全身が、警戒に強張った。
けたたましく警鐘を鳴り響かせる本能に従って身を捻る。
刹那、体のすぐ横を体温を伴った何かが大気を縦に切り裂いていった。
振り上げか、振り下ろしか、どちらの動作か判断できずに私は後退を選ぶ。この暗闇の中で後手に回るのは不利だとわかっているが、硬直から瞬時に回避行動に移った自分を信じよう。
すると、布でも巻いているのか、嫌に小さな靴音が私を追いかけて前進してきた。
城壁の下をくぐる形で城下へと続く通路は、その用途ゆえに幅広いものと設計されておらず、人間同士の大立ち回りはとても難しい。
そう、相手は人間だ。
手を伸ばせばすぐに石壁に爪が触れる。それをガイドに私はとにかく後ろ向きに走った。左右に逃走路を振ってみるが、靴音はまっすぐと私を目指してくる。その自信はどこから来るのだろうと考えて、向こうは私が見えているのかもしれないという予測が一番に浮かび、下唇を噛んだ。背中を見せた途端にバッサリとされるのが目に浮かぶようで、口内が干上がる。
とにかくこの場を切り抜けなければと、私は腰に提げる革鞄に手を突っ込み、ハッと視線を跳ね上げた。
「流石は竜に守護されし姫だな」
冷淡とも取れる青年の声は、悲しいか、私の耳には届いていない。
闇に浮かぶ、仄か緑色に輝く両目に私の意識は釘付けになっていたのだ。
「やはり、一筋縄ではいかないか」
夜空の星のように瞬いて輝く緑が消失したと同時に、靴音も止んだことで、一瞬の硬直が解けて、私は前方に向かって革鞄から取り出した呪い粉を反撃とばかりに振りまくが、呪文を唱えるよりも速く、脇をすり抜けていく気配を感じた。
防御に両腕を挙げる前に、背中に重い衝撃を受ける。
「かはっ」と、肺を底から叩き上げるような拳に、息は途切れて、背骨が軋んだ悲鳴をあげた。
崩された重心を立て直そうと壁に伸ばした手が掴まれる。
抱き止められるような、人の体温に包まれて、抵抗する活力を得ようと私の口は空気を求めて大きく開かれた。
それを見越して口唇に宛てがわれた布に薬品の匂いが染み込まれていると気づいたが遅く、生きたいという欲求がそれを大量に吸い込む結果を呼び寄せる。
「あなたから飛び込んでくるとは手間が省きましたよ」
言葉遣いが丁寧になっても、語調から滲み出る淡々とした酷薄さは、硬い耳触りで強烈な眠気に押し潰される私は、それは不快以外の何者でもなく、雑言を吐き捨てて、眠りに落ちていった。
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