お姫様は想い人の為に自分の名前を捨てたいようです。 ―― 支配樹の眠り

保坂紫子

【第一話】チェリエの家出




 私の名前はチェリエ。

 本当はもっと長いんだけど、今日はその長い名前を捨てようと思う。

 どうやって名前を捨てるのかって?

 方法こそ簡単よ。私がこの部屋から逃げ出せばいいのよ。

 この清潔に磨き込まれ、綺麗に整えられた、豪奢な部屋から、身につけている清楚なドレスごと捨て、去ってしまえばいいのよ。

 短絡的な考えだと我ながら笑ってしまうわ。

 決行すれば大事になるのは火を見るよりも明らかで、きっと、蜂の巣を突っついたような大騒ぎになるわ。責任者の首が飛ぶほどの大問題に発展するかもしれない。

 そんな単純な展開を予測できるだけの想像力くらいは私にだってある。

 そもそもが部屋から飛び出し、名前を捨てようという逃避行を果たしても、解決のひとつさえしないだろうことを結論として締めてしまうくらいは冷静だ。

 だが、しかし。私の気持は固まっており、決意を覆すつもりはない。

 私、知ってるわ。こういうのを家出と言うのよ。

 この部屋の外にいる人達は私が部屋から出て家から姿を消すことを良く思わないのは先の通りだし、最近の私の行動を不審と取って今は部屋の前には見張りが立っている始末よ。

 一昨日の失敗を今更に悔しく感じながら部屋の扉に近づく私は静かにドアノブを回す。

「姫様、お茶の時間はまだ先ですよ?」

 慎重に扉を内側の室内に引き込んで広がった隙間から声が投げかけられた。

 明るめの声変わりしたばかりの少年声でも、言葉には正午を過ぎたばかりの真っ昼間から何を企んでいるのかという圧迫があった。

 瞳だけ上向けると、この頃に急成長し頭ひとつ分も身長差が広がったヴィンの青い目とぶつかる。

「あれ。驚いた顔だね。この時間の当番が僕だって知らなかった?」

 ふたつ年上の彼とは生まれた時からの付き合いで、その性格はよく知っている。

 知らなかったのかなとしれっと言うが、見張り当番の変更についてわざと私に連絡しなかったのがバレバレだ。

「厄介だわ」

 私は早く会話を切り上げたかった。

「本音が漏れてるよ。褒めてくれるのは嬉しいけど、今日も大人しくしてくれないと困るよ」

 そんな私の気持ちを察したのだろう。ヴィンは人当たりのいい爽やかな笑顔のままに、私が扉を閉めるのを阻止しようとドアノブを挟んでの静かな諍いを仕掛けてきた。

 意地悪だ。

「困ればいいわ」

 微動だにしない扉にやけっぱちと吐き捨てた私を見兼ねたように、ヴィンが大きなため息を吐いた。

「僕が、じゃなくて、リーガルーダが困るよっていう話をしてるんだ」

 リーガルーダ。切り札のように出された名前に、私の吊り目気味の目は大きく開かれただろう。

「ずるいわヴィンドール。騎士見習いになったからって調子に乗ってない?」

「当然でしょ。騎士見習いになっても幼なじみだもの。お目付け役はそのまま継続しているからね」

「あら、昔はよく協力してくれたじゃない。そのリーガルーダの為だと私が言ったらあなたはどうするつもり?」

「それは……、わかった。そんなに睨まないで、とても怖いよ。可愛い顔なのに勿体ない」

 言い合いを避けたかったのか、ヴィンはあっさりと白旗を振った。

「算段は立ってるの? 迎えに行くのは僕になるけど、そこら辺は構わないかな」

「なんなら打ち合わせをしてもいいわ」

 ふたりで口裏を合わせて何度悪戯したことか。互いへの目配せだけで作戦は決まった。

「今すぐに行動するのなら半刻は稼いであげる」

「やってやろうじゃない」

「口が悪いよ。あと窓から紐を垂らすなんて無様はやめてね」

 前回の失敗をあげつらう騎士見習いをひと睨みして私は扉を閉める。

 扉が閉じきる寸前に「チェリエ」と彼がかけてくれた言葉に私はヴィンの非礼を許し、心遣いに感謝した。

「あなたはいつだって私の味方ね」

 さて、と。

 ヴィンは昔ながらの味方で、私を裏切ったりしないし、やると言ったらやってくれる男だ。

 降って湧いた半刻という猶予。数秒のロスも惜しく、私はドレスを脱ぐとベッドの下に隠していた古着を引っ張り出して着替える。

「んー? ヴィンってどんな速度で身長伸びてんのよ」

 親にも黙って譲ってもらったヴィンの去年のお古の大きさが少女の自分にもぴったりなものだから、私は思わずその場でくるくると回転し、着心地を確かめてしまう。

「ま。昔から変な成長の仕方だったから驚きはしないけどね」

 むしろ同年代の男子と比べれば遅いくらいだったから、あの歳になってようやっと成長期が到来したのだろうと納得がいった。

 姿見の前に立って素早く長い金の髪を三つ編みに編み上げて、深緑の艶のない無地の外套に腕を通し、フードを目深に被る。革の組紐で外套の前をしっかりと縛り締めて腰のベルトの金具に小さな革鞄を引っ提げた。

「よし。上出来」

 つば広の帽子があれば軽装の旅人に見えなくもない外見に私は満足して、室内履きから冒険用の革ブーツに靴を履き替える。

 身支度が済めば、毛足の長い絨毯の上を颯爽と歩き窓辺に寄ると日差しよけのレースのカーテンを左右に避けて、鍵代わりの止め金具を跳ね上げて、窓を大きく開いた。

 同時に吹き込んでくる突風に煽られて、一歩後ずさる。風の強さで地上からの部屋の高さがわかる。

 窓から身を乗り出す代わりに、シーツを細く裂いて端々を結び拵えた即席のロープを豪快に放り投げた。ベッドの支柱のひとつに括り付けられたロープは自重と風の勢いに乗せられてスルスルと外へと滑り出し、やがてはピンと直線のように張り詰める。

 すると間もなく、異変を知らせる警笛が響き渡った。それは合図で、これからは時間との勝負になる。

 私はというとロープを投げてからすぐに、窓とは反対側の壁に飛びつき、壁面を飾るタスペトリーの一枚をめくり、壁紙の表面を人差し指の腹で撫でて目視できない僅かなでっぱりを探り当てて、その場所を力を込めて押していた。

 解錠に口を開けた隠し通路に私は体を滑り込ませ、両開きの扉を閉じて施錠する。出入り口を巧妙に隠すためだろうか扉の密閉度は高く、一度遮断してしまうと向こう側の音は一切と聞こえない。

 同僚達の足止めに尽力してくれているヴィンに私は一切の不安を感じていない。むしろ宣言通りの時間は稼いでくれると確信している。本当は一緒に逃げられたなら心強いのだが、ヴィンにも立場ができてしまってはそれは叶わぬ我儘だ。

 ひとりで進むと決めた以上、後ろ髪を引かれる思いの自分を叱咤し、私は走り出した。

 避難用の隠し通路の道順のある程度は頭に叩き込んでいて自信があり、事実、明かり無しでも走り抜ける。

 通路の隠し戸を押し開き、使われていない古井戸に這い出て、丸い晴天を見上げた。

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