記憶喪失の景清が風邪をひいた話
※「続々・怪異の掃除人」第7章付近の話です。
始まりは、いくらお茶を飲んでも癒えない喉の渇きを感じた時だった。
「水不足なんでしょうか」
「急にどうした? 土地の話か?」
「いえ、喉が渇くんです」
「じゃあいくらでも飲むといい。水か茶以外の飲み物が欲しいなら、忠助に買ってきてもらうが」
「あ、お茶でいいです。自分で作ります」
この頃の僕は曽根崎さんとの生活にも慣れ、だいぶ身の回りのことを一人でできるようになっていた。だけど、お茶を作ったところで体がだるくてたまらなくなり、早めにベッドに向かったのである。
その翌日。
「…………」
喉が痛い。はちゃめちゃに痛い。それだけじゃなく、ベッドから出られないほどに体が重たいのだ。頭もボーッとする。
「曽根崎さん……」
突然の体の異常に心細くなって、僕は頼れる人の名を呼んだ。実際出てきたのはガサガサに掠れた声だったけど、リビングにいた曽根崎さんには届いたらしい。顔を覗かせた彼は僕に向かって頷くと、スマートフォンを耳に当てた。
「問題ない。今から救急車を呼ぶ」
「パニクってんじゃねぇよ!」
後ろから阿蘇さんの声が聞こえたが、その後の顛末を見届けることはできなかった。僕はことんと枕に頭を預けると、また眠ってしまったのである。
起きると、おでこがひんやりしていた。でもまだ体は熱い。ぼんやりとぬいぐるみの向こうに視線をやると、ぼさぼさ頭の人が鋭い目つきで僕を見ていた。
「起きたか」
その問いに、「はい」と返そうとする。けれど喉で引っかかったようになって、うまく声が出せなかった。
「無理するな。まずは水を飲め」
「はい……」
差し出されたコップを受け取り、飲む。いつもの水とは違った味だったけど、曽根崎さんから貰ったものなら大丈夫だろう。喉が渇いていたのもあって、一気に飲み干した。
「今の君の状態は“風邪”だ」
そして、曽根崎さんは教えてくれた。
「風邪とは、体内にウイルスや細菌が侵入することで起こる上気道の急性炎症の総称だよ」
「?」
「特効薬はなく、対症療法が主になる。しかし命の危険がないなら、むやみに抗生物質を飲んだり薬で熱を下げるのは剣呑だからな。強い症状がないなら、休養して免疫力を高めておくべきだろう」
「?」
「……えっと、今はゆっくり休めばいい」
「はい」
曽根崎さんは頭がいいけど、時々今の僕には難しすぎる話をするので困ってしまうのだ。けれどすべきことは教えてもらえたので、僕はベッドに収まり直し、ふうと息を吐いた。
そんな僕の顔を覗き込んで、曽根崎さんは首を傾げる。
「何か食べられそうか? 食欲があるなら、栄養をつけたほうがいいんだが」
「うーん……あんまり食べたいとは思わないです」
「そうか。忠助がお粥を作ってくれているから、食べたくなったら言うといい」
「はい。あ、洗濯物……」
「それも忠助がやってくれた。君は気にしなくていい」
「トイレ掃除……」
「忠助がやってくれた」
びっくりするぐらい阿蘇さんがやってくれている。申し訳なさがすごい。なお曽根崎さんが何もやってないのは怠慢ではなく、阿蘇さんに禁止されているからである。僕も身をもって知ってるけど、曽根崎さんが家事をするとなぜか用事が増えるのだ。
『これぞ家事ならぬ火事』
ダメだ、笑えない冗談を言って阿蘇さんにしばき倒される曽根崎さんを思い出してしまった。あの時も大変だったなぁ。
「三日経てばかなり楽になるだろう」
曽根崎さんは、心なしかいつもより優しい声でそう言った。
「人間の体には免疫機能がある。ウイルスが体内に侵入してきたら、まずマクロファージがその情報をキャッチし……」
「?」
「……君の体の中にいる細胞たちが、力を合わせてウイルスを撃退してくれるんだ。体内に兵を置いているようなものだな。よって君のすべきは、可能な範囲で水分と栄養を摂取して休養し、体内の兵を存分に働かせることだ」
「いつのまに僕の体に軍隊が……」
「聞いて驚け。私も持ってる」
「日本ですら持ってないのに」
「その話は根深い議論になるから今はやめような」
曽根崎さんの大きな手が、布団越しに僕のお腹の上に置かれる。そのままぽんぽんと優しく叩かれた。僕がなかなか寝付けない時に、いつもこの人がやってくれる仕草だった。
「……私にできるのは、せいぜいこうして君の容体を見守るのみだ」
低くゆっくりとしていて、僕の心を落ち着かせる声だ。その声に包まれて、僕は深呼吸した。
「だが、無力でもないだろう。ゆえに君は何も心配せずに眠るといい」
「はい」
「おやすみ」
「はい、ありがとうございます」
彼の言葉どおり、僕の体はまた眠気を感じていた。さっきと違うのは、体の怠さよりも大きな安心感に包まれていること。だけどまた夢に導かれようとする意識の中、ふと僕は曽根崎さんに伝え忘れていたのを思い出したのだ。
見守ってくれるだけで十分です。
僕の目が覚めた時、そこにいてくれればそれで。
でも、彼ならきっとそうしてくれるだろうと知っていたのである。だからそんな想像に甘えて、僕は曽根崎さんの手の重さを感じながら目を閉じたのだった。
完
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