第4話

冷たい風が吹いている深夜の非常階段。スマートフォンのホーム画面を開く。表示されているのは2022年4月。日時もタイムリープする前とほぼ同じ。どうやら現代に戻ってこられたようだ。


タイムリープをする前、芝山さんは俺の正面に座っていたはずなのだが、今は踊り場で隣りに座っている。


「戻ってきた……」


「えぇ、そうですね」


隣から返事があったので芝山さんと目を合わせる。芝山さんの顔からはアザが消えていた。


「し、芝山さん……」


俺は驚いて芝山さんの肩を叩く。


「ど、どうしたんすか?」


芝山さんは若干ビビりながらも聞き返してくる。


「あざ……消えてる」


俺は自分の右頬を指さしながら教える。


スマートフォンを鏡代わりにして芝山さんも自分の顔を確認。今のは夢じゃなかった、過去を改変した結果未来も変わった。


そんな事実を飲み込むのに数分を要する。


「ま……まじでタイムリープしちゃったんすか……」


「そうみたいだね……」


「と、とりあえず部屋を見てきます」


芝山さんは慌てて立ち上がって階段を登っていく。


芝山さんは過去に戻り、現代でろくでもない彼氏になっている灰田を殴りつけた。それによって今回の世界では彼氏ではなくなっていて、アザが消えた可能性もある。


一人でぼーっと夜風に当たりながら外を眺める。深夜に近所のイタリアンバルから放出された人達が陽気にはしゃいでいる。


そんな喧騒に耳を澄ましていると、やがて上の階から人の降りてくる音がした。


上の階の踊り場に姿を見せたのは首を傾けた芝山さん。


「ど……どうだった?」


階段越しに尋ねると芝山さんはもったいぶったようにその場にしゃがみ込む。


「教えてくれてもいいじゃん……」


芝山さんは顔をあげると可愛らしく頬を膨らませてその場で腕をクロスさせて大きくバッテンを作った。


「ダメでした。普通に付き合ってます」


階段の上から芝山さんが悔しそうにそう言う。


「ま……そんなもんだよねぇ」


「過去の私……あいつはやめておけ……」


芝山さんが過去の自分に恨み言を言いながら階段を降りてくる。


「次はメッセージでも残してみる?」


「『灰田とは付き合うな』ってメッセージを残すんですよね? 過去の私の習性からすると嬉々として灰田に声をかけてしまう気がします。単に付き合うのが早まるだけかと」


芝山さんは悔しそうに首を横に振りながら俺の隣に座り直した。踊り場の端に置いていた自分のレモンサワーを片手で持ち、スマートフォンを操作し始める。


「おっ……やはりビートルズは解散してますね。ジョンも亡くなっています」


「そりゃそうでしょ……そこまで過去だと俺達は生まれてないんだし。過去の更に過去は変わんないんじゃないの」


「それは決めつけですよ。そもそもタイムリープなんてありえないことが起こっているんです。最早ありえないことなんてありえません」


「そうだけど……変わったのが今日殴られてないってことだけなのはショボくない?」


「もう一つ変わってました」


「そうなの?」


「はい。灰田はとにかく香水の趣味が悪いんです。レモンの匂いがする香水なんですがそれがなくなっていました」


「あぁ……」


だから過去に戻る前はレモンの匂いがしたのか、と一人で納得する。


「些細な変化ですが、もう少し工夫すれば再生する気がします」


「何が?」


「私の処女膜です!」


芝山さんは力強く宣言する。


「はっ……え?」


「ですから……私はもう一度タイムリープしたいんです。現代で灰田と関係を断っていることが重要です。処女膜を取り戻すその日まで私は戦い続けます」


「はぁ……」


もっとこう、世界を変えるなり欲を満たすなり色々とありそうなものなのだけど、随分と矮小な目的のためにタイムリープをしたがっているらしい。


「栗原さん」


「な、何?」


「経験済みの人間が過去に戻った場合、経験の記憶はあります。肉体は元に戻っていますが。この場合、性の悦びを知っている過去の私は厳密に処女と言えるのでしょうか?」


「知らないよ……どっちでもいいし……」


「私はここに精神的処女、肉体的処女という概念を提案します。過去にタイムリープした私は肉体的処女ですが精神的非処女ではないかと考えます」


「キモいって……」


「ちなみに栗原さんは童貞ですか?」


「せ、精神的童貞だよ」


「肉体的には非童貞だと……目隠しして無理やり襲われたんですか?」


「か、完全童貞だよ!」


「なんすか完全童貞って」


芝山さんは小馬鹿にした感じで笑う。


「あのさぁ!」


この人の相手をする灰田も大変そうだ。だからといってさすがに手は出ないけれど。


芝山さんはケラケラと笑いながら俺の怒りをいなす。その飄々とした態度を見ていると俺もあげた拳のおろしどころが分からなくなってしまった。


「てかさあ……今から部屋に行って別れ話をしたらいいじゃん」


「それは嫌です。それこそ頬にアザが出来るかもしれませんし綺麗に清算できる自信もありません。ここはやはり過去に戻って根本から断つのが最善なんです」


「なるほどねぇ……じゃ、もう一回戻ろっか……ってどうしたらいいのかは分かんないけど」


「レモンサワーを飲んだらいけるんじゃないっすか?」


「そんな適当な……」


そうは言いつつも他にトリガーのようなものも思い当たらないので、二人でレモンサワーの缶を持ち目を合わせて乾杯する。


深夜に非常階段でレモンサワーを飲んでタイムリープ。あまりに滑稽な妄想過ぎて、このまま過去に戻れなくても二人でゲラゲラと笑っていられそうだ。


そこからどうしたらいいのかは全くわからない。精神的童貞かつ肉体的童貞、つまり完全童貞だから。


俺は「ほらね、戻れなかったじゃん」と言う準備をしていたが、すぐに酔いが回ったように視界がグルグルとし始めたのだった。

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