万里
夜明けの街を歩き始めた俺を引き止めたのは、一本の電話だった。
サクラからだ。
サクラから電話が来るなんて、知り合ってもう長いがはじめてのことだった。
なにか非常事態か、と、驚いて電話を取る。
「サクラ?」
電話の向こうのサクラは、しばらくの間黙っていた。
どうしたんだよ、と問いかける一秒前に、サクラは笑った。いつもの彼女の、ちょっと気怠い笑い方ではなく、なにか吹っ切れたような、それは妙に鮮やかな笑い声だった。
バカみたいね、と、サクラが言う。
『バカみたいね。こんな時に電話するのが、あんたくらいしかいないなんて。』
「こんな時?」
こんな時ってどんな時だよ、と首を傾げると、サクラは笑ったままの声で答えた。
『さっき手首切ったの。血がいっぱい出てて、気持ちいい。もうすぐ私、死ぬんだと思う。』
彼女がなにを言っているのか理解できず、俺の反応は間抜けに一拍遅れた。
「……は? なに言ってんだよ、お前。」
『だよね。意味分かんないよね。私にも分かんないもん。』
「今どこにいるんだよ。」
夏休み中の子供みたいにのんきなサクラの声は、何もかも冗談みたいにも聞こえた。
ただ、サクラは下らない冗談を言うために電話をかけてくるような女じゃない。
『教えない。あんたはお優しいから、止めに来てくれるんでしょ? そういうの、もういいの。』
「……。」
『ちょっと人の声が聞きたくなっただけ。気にしないで。』
気にしないでいられるわけがあるか、と、腹がたった。どこにいるんだ、ともう一度問いかけても、彼女は無視して全く違うことを話し始める。
『そんなに真面目に引き止めないでよ。ほんとに大したことじゃないの。ただちょっと、色々飽きただけ。今日もつまんないなって、あんたと言い合ってるのは割と好きだったんだけどね。でも、もう本当におしまい。』
今彼女はどこにいるんだ、と、必死で無い知恵を絞る。
はじめに思い浮かんだのはバーテンの部屋だったけれど、すぐ打ち消した。あの白い修道士が住むような部屋を、彼女が血で汚すとは思えなくて。
そうなると多分、彼女が泊まり歩いている男の家のどれか。一番つまらない、どうでもいい男の家だろう。
そこまで考えてみはしたものの、俺は彼女の愛人宅など一軒も知らなかった。
『ねえカイリ。ちゃんと聞いてる?』
「……聞いてるよ。」
『最後に一つ。」
「……なに。」
『バンリくんはね、あんたが思ってるほどバカじゃないよ。』
それだけ言って、電話はぷつりと切れた。
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