この街を離れよう。

 それは決意というよりは、舞い降りてきた羽のようだった。

 この街にはずいぶん長いこといた。施設を出て、いろいろな街を転々とし、万里が住むこの街にやってきてもう10年近い。

 これまでこの街を離れようと思ったことはなかった。水商売の女が多いから宿には困らないし、万里がいた。

 「この街を、出ようと思います。」

 言葉は喉にも唇にも引っかからず、ふわりと口から溢れ出た。

 女は目を細め、俺の顔を覗き込んだ。真意を確かめようとするみたいな、妙に真面目な眼差しだった。ほとんど初対面の俺に対してするような目ではない、と思った。

 「黙っていくつもり? バンリくんに。」

 問われ、俺は首を傾げて黙り込んだ。

 黙って出ていったほうが万里は俺を忘れるだろうか。

 いや、違う。サクラが言っていた。きれいごとを書いた手紙の一枚でも残していったほうが、相手は俺のことを忘れると。

 そしてそこまで考えた俺は、ようやく万里に手紙を残して出てきていることを思い出した。

 ちょうどいい。

 あの手紙で全て終わりにしよう。

 「手紙、残してきたんです。俺のことは忘れるようにって。冗談のつもりだったんですけど、丁度いい。」

 そう、と、女はそれ以上なにも訊かずに頷いた。

 俺は笑って、女の胸から額を離した。

 両目の視界が一気に曇って、右、左、と順にクリアになっていった。頬に生暖かい液体が伝う。

 どうして自分が泣いているのかわからないまま。俺は涙を手の甲で拭った。

 「この街を出て、携帯も替えて。そしたら俺なんて、きれいさっぱり消えますよね。……バカみたいだ。」

 バカみたいだ。たったそれだけで、これまでどうしたって離れられなかった万里との縁は切れてしまう。

 「そうね。」

 女が静かに呟いた。

 「私もそうやってここまで流れてきたわ。」

 だったら俺も流れようと思った。流れる水みたいに、誰にも惜しまれず、一人で。

 それが楽だと思った。もう誰にも何にも心を乱されたくはなくて。

 万里ははじめこそ俺を探すかもしれないけれど、バイトに大学にと忙しくしているうちにきっと俺を忘れる。 

 サクラは多分、俺が消えた理由を悟ってくれるだろう。あいつは俺と同類だから。

 「出ていきます。この街を。」

 決意を固めてそう言うと、女はこれ以上ないくらいひっそりと頬を笑わせた。

 「あなたはきれいよ。どこに行ったって、どうやったって生きていける。」

 ありがとうございます。

 心から礼を言って、俺はベッドを降りた。





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