サクラはやめとけよ。

 口の中までその言葉は上ってきた。

 本当に口を出さなかったのは、バーテンは全て知っているのだろうと思ったからだ。

 サクラの仕事や、性格や、遊び方なんかを、全部。

 ろくでもないそれらのプロフィールを知った上で、それでも彼女を愛しているのだとしたら、もう俺には出る幕がない。

 出ていかねば。

 そう思った。

 この優しい男のそばから離れなくては。

 すると俺の考えを察したみたいに、バーテンは、どこにも行かないでください、と囁くように言った。

 行かないよ。

 俺は嘘をついた。

 バーテンと違って、俺は嘘なんていくらついても平気だ。

 彼が眠ってしまったらここを出よう。次の宿のこころあたりなんてないから、適当に女を拾うか、最悪万里の部屋に転がり込めばいい。

 かすかに震えるバーテンの身体を布団の中に引っ張り込み、浅い口づけを幾つか交わす。

 たった一つの嘘でこんなに動揺するなんて、彼はよほどサクラを愛しているのだろう。

 最近顔を合わせていないサクラの、白い横顔を思い出す。

 いつも怠そうで、退屈そうで、退屈しのぎに男と寝てみたりする厄介な女。バーテンと寝たのだって、彼女にとってはただの時間つぶしだったのだろう。

 腕の中で震える彼の背中をなでてやりながら、万里のことを思い出した。

 万里の背中をこんなふうに撫でながら越えた、幾つもの夜。

 幼い頃の万里はひどい泣き虫だった。だから俺は、大部屋で隣に敷かれた万里の布団に転がり込んで、その背中をなでて寝かしつけていた。

 あの頃、なぜ万里があんなにも泣いてばかりいたのか、今でも俺には分からない。

 親を恋しがるには、親の記憶がなさすぎたし、万里はあの施設の先生たちに犯されているわけでもなかった。

 涙のわけなんて、到底思いつかなかった。

 それても万里はよく泣いた。万里が泣き止み、泣き疲れて深い眠りに落ちてしまうと、施設の先生が俺を迎えに来た。

 俺は泣きはしなかった。泣いてもどうしようもないことだと分かっていたし、もし泣いていたとしたら、やはり泣き止まねば万里を代わりにすると脅されていただろう。

 バーテンはしばらくすると安らかな寝息を立て始めた。

 俺はそっとベッドから降り、音を立てないように慎重に彼の部屋を出た。

 夜明けの街は、まだ汚されていない白い空気に満ちていて、息を吸うとこんな俺でも少しは腹の中がきれいになるような気がした。




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