行かないでください、と彼が言った。彼が握る俺のスマホからは、まだ万里の声がきゃんきゃんと漏れ聞こえていた。

 行かないでって、どこに? ていうか、なんで?

 そう問い返そうとした俺の唇を、彼の冷たい唇がふさいだ。

 俺は心底驚いて、目を見開き硬直する。彼の真意が全く読めなかった。

 彼の右手が動き、騒がしかった万里の声が途切れる。そうすると、この部屋は恐ろしいほど静かだった。

 「ごめんなさい。」

 彼の声は、俺の胸にまで痛みを感じさせた。いいよ、とだから俺は言った。突然のキスについても、勝手に電話を切られたことについて、更に言えばこれから彼がなにをしたとしても、それら全てを許させるくらいの痛みが、彼の声にはあった。

 ごめんなさい。

 そう繰り返しながら、彼は俺の身体を病院みたいな白いベッドに押し倒した。俺は彼にされるがままになっていた。スマホが枕元に置かれたのは分かったけれど、それを手に取る気にもならなかった。覆いかぶさってくる彼の拙い必死さが伝わってきて。

 多分彼は、俺をここに引き止める方法を、これしか思いつかなかったのだろう。だから、こんなに必死に。

 男と寝るのははじめてではなかった。宿を確保するために抱いたことが何度があった。だから、彼の行為に嫌悪はなかった。ただ、彼の危うさみたいなものを感じて、なんだか切なくなっただけだ。

 彼の背中に腕を回し、体勢を入れ替える。彼は抵抗しなかった。おそらくこの人は、男と寝たことがない。

 「いいよ。しよう。」

 耳元で囁くと、彼は小さく頷いた。そしてその後、ごく低い嗚咽が聞こえた。

 嗚咽に気が付かないふりをして、彼の髪を解く。女みたいにしなやかな髪をしていた。 

 そのままセックスをした。縮こまる彼の手足をなぞって緩ませ、声の一つもない静かなセックスをした。

 行為が終わった後、枕に顔を伏せた彼の背中を撫でながら、このことはサクラには言わないでおくから、と言おうとした。

 しかし彼は、このことはサクラに……まで言った俺の言葉を遮り、言ってください、と震える声を出した。

 「言ってください。俺があの人と寝たことは、別に特別なことじゃなかったって。」

 俺は言葉に詰まり、しばらくどうするべきなのかを考えた後、彼の肩にそっと触れた。

 「分かったよ。」

 それ以上の言葉は浮かばなかった。俺には彼がサクラに向けた感情も、その表し方も、なにが正解かなんてちっとも分からないんだから。



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