バーテンははじめ、俺をバーのカウンターに座らせようとした。それが場所を2階の彼の住居に替えたのは、俺が背後を気にする素振りを見せたからだろう。もしかして包丁を持った麻美が立っているのではないかと。

 「なんかごめんね。」

 と俺が謝ると、彼は首をはっきり左右に振った。

 「俺が無理にお連れしたんですから。」

 彼の部屋は、彼の見た目、つまりは華やかな雰囲気のイケメンバーテンダー、ということなのだが、その見た目とは違ってかなり質素だった。貧乏くさいと言うよりは、清貧とでも言い表せばいのだろうか。昔の修道士が住んでいそうなひっそりとした佇まいをしていた。

 「かけてください。」

 彼はそう言って、俺のために椅子を引いてくれた。木製のその椅子は、同じく木製のテーブルの前に置かれていたのだが、テーブルはぴたりと白い壁につけて置かれており、椅子に座ると俺は壁と向き合う形になった。

 俺はなんとなく、彼には孤独癖があるのかもしれない、と思った。

 彼がテーブルの隣りにあるベッドに腰を掛けたので、俺は椅子の向きを変えて彼と向き合った。そうすると、ほとんど膝が触れ合うような距離感になる。

 彼はしばらく、言葉を探すように静かに目を伏せていた。俺はその時にはもう、彼がサクラのことを訊きたいのだろうと検討をつけていたので、サクラ? と、水をかけるつもりで口に出した。

 すると彼は、長いまつげを持ち上げ、溺れる人のような切実さで俺を見つめた。

 「はい。」

 「サクラの、なにを?」

 問いかければ彼は、またまつげを伏せた。

 「それが、分からないんです。」

 「分からない、か。」

 そうだよね、と俺は頷いた。このきれいなバーテンダーはどう考えても俺やサクラではなく万里側の人間だし、だとしたら俺に彼らの生態が分からないのと同じように、彼らには俺たちの生態が分からないはずだ。

 しばらくここにいてくれませんか、と、彼が言った。

 俺は、は? と返した。本気で理解不能だったのだ。

 彼が形のいい唇を微かに開き、更に言葉を重ねようとした瞬間、俺のジーンズのポケットでスマホが鳴った。

 「ごめん。」

 俺はそう彼に断ってから、相手を確かめもせずにスマホを耳に当てた。すると、耳がキーンとくるほどの勢いで溢れてきたのは、聞き慣れた万里の声だった。

 『ちょっと、この手紙、どういうつもり!? 忘れてほしいとか意味不明すぎるんだけど!! 海里今どこにいんの!?』

 ああ、その手紙な。別に意味はないや。ただの練習。

 そう答えようとした俺の手から、スマホが消えた。

 驚いて目を瞬く。目の前に立ったバーテンが、俺のスマホを握っている。

 「本命さんですか?」

 短い問い。俺は反射みたいに首を横に振った。





 

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