バーテンダー
万里が大学に行くのを見送って、俺はとりあえず手紙を書いた。
サクラからの助言を、絶対に刃物を持ち出してこない万里で試しておこうと思ったのだ。
便箋なんてものはなかったので、本棚をあさってルーズリーフを一枚引っ張り出した。
文面は、簡単なものになった。ただ、これまでありがとう、俺のことは忘れてください、と。
どんなに頭を捻っても、それ以上の文章は思い浮かばなかった。学がないのだから仕方がない。
書き上がった手紙を枕の上に乗せ、俺はその出来栄えを見下ろして一人満足した。これぞ正しい別れの手紙、という気がしたのだ。なので、いつもより幾分弾むような足取りでアパートを出た。
さて、今日はどこで宿主を探そうか、とぼんやり考えながら歩いていると、例のバーテンが向こうから歩いてくるのに気がついた。いつものワイシャツにベストという格好ではなく、白いコットンセーター姿の彼は、いかにもちょっとそこまでスタイルのサンダル履きで、右手に買い物袋を下げていた。
俺は、そのまま気が付かないふりをして彼の傍らをすり抜けようとした。声をかけるような仲でもないし、それが一番無難な対応だと思ったのだ。
けれど、バーテンはそうしなかった。はっとしたように俺を見て一瞬動きを止めた後、すみません、と、俺の腕をつかんで引き止めてきたのだ。
引き止められた俺は面食らい、呪縛霊でも見たような顔をしたのだと思う。バーテンダーは俯き、すみません、と言葉を重ねた。
俺はなんと応じていいのか分からず、いやいや、とかなんとか、適当な言葉を口の中でごにょごにょとかき回した。彼が俺を引き止める理由が全く思い浮かばなかったのだ。
数秒の座りが悪い沈黙の後、あの、と、ちょっとでかすぎる声で言いながら、バーテンダーは思い切ったようにがばりと顔を上げた。
きれいな茶色に澄んだ目に見上げられて、俺は更にたじろいだ。
「あの、今って時間ありますか?」
時間?
時間ならあるにはある。宿主を早いところ探さなくてはいけないが、どうしても今すぐここから立ち去らないといけないわけでもない。
「……ありますけど……。」
ちょっと警戒しながら答えると、バーテンはほっとしたように、顔全体を覆っていた硬直を解いた。
「ちょっとだけ、時間もらえませんか?」
「……いいですけど……。」
「ありがとうございます。」
バーテンは俺に何度も頭を下げ、俺がいなくなることを恐れでもするみたいに、俺の腕を掴む手をじわじわと弱めた。その上彼は、完全にその手を離すことはなく、俺は彼に腕を引かれたまま、来た道を引き返す方向へ歩き出した
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