「さっきまで麻美ちゃんが来てたわよ。」

 夜も更けたいつものバーで、サクラは面白そうに、白い鼻の頭に皺を寄せるようにして笑った。

 「あんたを探してたみたい。黙って出てきたの?」

 俺はうんざりした気分でサクラの隣に腰を下ろし、バーテンに向かって、なにか甘い飲み物を、と注文した。サクラは目をぱちぱちさせ、本当に疲れてるのね、と呟いた。俺は身体の芯から疲れているとき以外はバーボンを飲む。甘い飲みものが欲しくなるのは、全身が疲れに覆われたときだけだ。

 端正な顔立ちのバーテンは、黙ったまま俺の前にグラスを置いた。中には澄んだ水色の酒が入っている。

 一口口に含めばそれはまあ、倒れそうなほどに甘くて、癖になりそうな味をしていた。

 うまいな。

 思わず口に出して言うと、バーテンが微かに口元を緩め、ありがとうございます、と小声で囁いた。

 「麻美ちゃん、包丁持ち出さなかったの?」

 「持ち出されたら困るから、仕事で留守の間に出てきた。」

 「置き手紙くらいはしてきたの?」

 「探さないでください、とか?」

 「そうそう。」

 「してないよ、そんなの。」

 麻美の前からは、きれいに消えたかった。彼女が死ぬまで俺を思い出さないくらいに。だから、彼女の部屋に会った俺の痕跡は、残らず消してきた。でも、サクラの口ぶりを聞くに、それは逆効果だったのかもしれない。

 「手紙、置いてきたほうが良かったかな。」

 「そうね。きれいごとを並べた手紙の一枚でも置いてくれば、ひとしきり泣いてあんたのことは諦めたんじゃない。」

 きれいごとを並べた手紙。

 そんなものを器用に書き残せるくらいなら、俺は多分、ヒモなんかやっていない。

 「しばらくここには来ないほうがいいんじゃない。」

 サクラが全くの他人事みたいに、長い髪の毛先を弄くりながら言う。

 「そうかな。」

 「包丁持ってこないとは限らないわよ。」

 「そうだな。」

 「他はどこか、行動範囲知られてないの?」

 「知られてないはず。」

 「だったらしばらくこの店には来ないことね。」

 そうね……、と、俺はぼんやり呟いて、甘いカクテルを喉に流し込む。

 サクラは呆れたようにちょっとだけ唇を笑わせた。

 「行くとこあるの?」

 「急に出てきたからないな。適当に女ナンパするよ。」

 「相変わらずサイテイね。」

 「ああ、久しぶりに万里のところに行ってもいいかもしれないな。」

 思いつきで言った台詞に、なぜかサクラはぱっと顔を輝かせた。

 「そうしなさいよ。」

 サクラにそんな顔をされると、俺はなんとなくの思いつきだった、万里の家に押しかけるという案が妙計に思えてきて、少しだけ残っていたカクテルを飲み干して立ち上がった。

 「よし。行ってくる。」

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