麻美の部屋は狭い1Kだ。どこにいたってお互い顔を突き合わせているしかない。

 別に、麻美が嫌いなわけではない。

 ただ、彼女の姿は俺に、施設にいた頃を思い出させる。

 長い黒髪と、化粧っ気のない白い顔。

 施設の『先生』と呼ばれていた職員たちは、みんなそんな姿をしていた。

 「ただいま。」

 深く息をついてから、部屋のドアを開ける。麻美は短い廊下を抜けた先の狭い部屋で、じっと本に目を落としていた。

 わざとらしい仕草だと思う。本当は俺が部屋の鍵を開ける音がするまで、じっと玄関のドアを眺めてでもいたのだろう。

 麻美のそういう性格を、いじらしい、かわいい、と思ってくれる男は、多分結構いるだろう。だから彼女は、そういう男と暮らすべきなのだろう。だって、俺はそうは思えない。長い黒髪に巻きつかれているような不快感を覚えるだけだ。

 「お帰りなさい。」

 麻美が、たった今俺の帰宅に気がついた、とでも言いたげに本から顔を上げる。彼女は、普通に昼の仕事をしている。こんな時間まで起きているのは辛いだろう。明日の仕事にもひびくはずだ。それでもやはり俺は、彼女をいじらしいともかわいいとも思えない。

 「遅くなってごめん。眠いだろ?」

 「大丈夫。読みたい本があって、夜ふかしする予定でしたから。」

 「そっか。でももう今日は寝よう。明日の仕事が辛くなるだろ?」

 ええ、そうします。

 頷いた麻美は、パタリと本を閉じて立ち上がる。俺はジャケットを脱いだだけの格好で、彼女とベッドに潜り込んだ。

 麻美の前で、無防備に服を脱ぐ気にはなれなかった。

 麻美が悪いわけではない。昔、施設の『先生』にされたことを思い出すだけだ。あのとき俺は、万里にはしないで、と『先生』にすがるように頼んだ。今思えば、『先生』は万里を人質にとって、俺をベッドに引きずり込んでいたのだと分かる。あのとき守らねばならなかったのは、万里ではなく、俺自身だった。

 重ねられた幾つもの夜の暗さと重さを思い出し、じっと天井を眺める。すると、傍らの麻美が急に俺の方に身体ごと向き直った。

 「なにを、考えているんですか?」

 女っていうのは、みんな千里眼なのだろうか。サクラみたいに。

 俺は麻美の目を暗闇の中で見返した。

 「なんでもないよ。」

 短い沈黙が落ちる。

 そして、麻美はその沈黙にそっと泡でも浮かべるように、そうですか、と囁いた。

 ここをでていかなくては、と思う。

 彼女がもっと性悪女だったらこのままここにとどまればいいけれど、こんなに鋭くて優しい女だと分かってしまえば、もうここにはいられない。

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