試練/一

 淀んだ空気感が周囲を支配する封印の小屋。古びた社と言うべきか、神聖なる跡地と言うべきか。その地を生涯かけて守護する者として、俺には様々な試練が課された。

 第一に、「恐れ」を恐れるな。

 そう言葉を残して祖父は、幼い俺を一人真夜中の森に捨てていった。


「おじいちゃん、どこ?」

 少し前まで祖父は自分の傍にいた。しかし、試練が始まると同時に姿を消した。自分一人の力で生き残れ、ということなのだろう。そのために鬱蒼とした森に俺だけを置いていったのだ。子供心でもそれはわかっていた。だが、感情は理解を拒み続けている。

「怖いよ、ここどこ? おじいちゃん、どこ?」

 いくら見渡しても、黒。どれだけ耳を澄ませても、無。

 月の影も届かない。風の音、枝の揺れる音はおろか、自分の足音さえも聞こえない。

 ここはもう、自分の見知った故郷ではない。

 遊び場だった緑の庭は姿を消したのだ。

「おじいちゃん……」

 暗がりに自分一人。頼れる人は誰もいない。座り込んで声を殺しながら涙を流した。


『——————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————』


「……は」

 気づき、立つ。

 見渡す。

 何も見えない。

 だが見渡す。

 何も無い。

 しかし、聞こえた。

 はっきり聞いたわけではない。ただの気のせいかもしれない。

 ただ、音にもならない声が、耳朶を優しく塗るように触れてきたのだ。

「は」

 心臓が強く波打つと共に白い靄が口から漏れた。

「……」

 口を閉じる。微動だにせず、いるはずのモノの気配を探る。

 視線を前に向けたくない。後ずさりもしたくない。ただ時間が過ぎ去るのを待っていたい。

 だが脳裏に、無表情のまま見つめてくる祖父の姿が浮かんだ。

「……うぁ」

 下唇を強く噛み強引に顔を上げる。何も見えない。なら次は、進むだけだ。


 透明なナニカから逃げている? それとも、追っている? どちらも同じこと。子供の俺は、居ても立っても居られないというだけで走り続けていた。

「はっ、……ぐっ、はっ、はっ、ぁ」

 凝り固まる唾液を呼吸と共に飲み込む。目前にある巨人のような木々が嘲笑うように自分を避け、道を作っているように思えた。

「あああああああ!」

 理由なく肺と喉を枯らせる。自暴自棄に、終わらない試練に囚われ続けている自分を壊そうとする。

「はあ、はあ———ああ!?」

 突然、足裏に伝わっていたはずの地面からの反発力がなくなった。同時に髪が逆立ち、夜空と地面が入れ替わった。

「なに、なに」

 もがくも片足に力が入らない。掴まれて持ち上げられているような感覚だった。そして後ろの方に顔を向ける。

「は———?」

 喜ばしいことに、黒以外なかった世界に色が灯った。ただ、薄汚れた糞尿のように鮮やかなモノだったが。

 そこで俺はひとしきり叫び泣き、何度も身体を揺らして見せた。しかし、小柄な身体を水風船のように吊るしているソレは何の反応も示さない。段々と、目前の化け物の姿を捉えられるほどに目が慣れていく。


 蛾の幼虫の群れが二メートルの大男の身体を形成している。

 地面からぞわぞわと這い上がる蛆虫の群が、一つの個と成っている。

「……ぼ、」

 その醜悪さに目を覆いたくなる。しかし掴まれた右足を伝って、虫は自分を侵食していた。裾の間に何匹もの虫たちが入り込み、身体を蝕んでいく。感覚の特に鋭いところで奴らが蠢ている。徐々に、徐々に。正気が融かされていく。

「いやだ! やだ! 助けて! 誰か助けて! おじいちゃん!」

 そう駄々をこねる少年の口にも虫が飛び込み、喉に引っかかる。感覚の異常、犇めく害虫。咄嗟に飛び出た吐瀉物は鼻の穴に入り込み、眼球を濡らした。


 ———なんで? 僕が何をしたの?

 ごめんなさい、もうしないから。何を?

 わからないけど、きっと罰なんだろう。いつのまにか、悪いことをしてしまったんだろう。

 おじいちゃん、言うこと全部聞くから。

 もう悪いことはしないから。


 僕が、全部悪いから。


 そう。悪いのは、俺だ。

 昔からの罪は俺が引き継ぎ、その罰を受けるのも俺だ。例えその役割をまだ理解していなかったとしても、この「神室」という血は罰から逃げることを許されない。

 ……ああ、なぜ。俺は耐えられるようになってしまったのだろう。


「愚か者が」

 低い声が聞こえる。死にかけの少年はゆらゆらと見た。そこにはいつも通りの仏頂面を構えた祖父が立っていた。

「其奴を倒すまで此処からは出さんぞ」

 突き放したようなその言葉はしかし、気が狂ってしまった俺の耳に届かなかった。祖父の言葉を聞いているだけで理解できなかった。

「ふん」

 呆れる祖父。一呼吸の間に化け物に迫り、宙ぶらりな俺を強引に引きはがした。そのまま地面に転がされて、やっと先ほどの言葉を噛み砕けるようになった。衣服の中の虫はまだ顕在だったが、俺は声を絞り出した。

「無理だよ」

「……」

「そんなの聞いてないよ」

「……」

「あんなの、倒せっこないよ。逃げようよ、おじいちゃん。助けて」

 すると祖父は俺を持ち上げ、馬鹿者が、と一喝した。

「神室の血を継ぐ者が、腑抜けたことを言うな!」

 そう言って頬を平手打ちし、化け物に向き直った。

「見ておれ」

 そう、静かに言い放った。

 虫を纏った人型のそれが片手を振り上げる。とても長く、祖父の頭上一メートルは超えていた。怪物は声も無く、落下するように腕を降ろした。そして、祖父は。

 その一撃を躱さなかった。

「おじいちゃん!」

 その一撃を確かに受けたはずの祖父は決して動かなかった。木偶の坊かと見間違うほどに。まるでそこに立っていたのが、人の形をした岩かと見間違うほどに。

 祖父の身体を蛆虫が這っている。しかし何も無かったかのように、踏みしめるような一歩を踏み出した。怪物は何度も祖父を攻撃した。べちゃべちゃと音を鳴らして、その度に祖父は身体に虫を貼り付けられて。それでも祖父は、揺らがなかったのだ。

 そして。

だく

 と一言呟き、ソレの胸元を突き上げるように手刀で貫いた。血の代わりに幼虫が噴き出す。地面に漏れ出たその群れは、毒に当てられたようにもがいている。まるで捕まった俺みたいだった。そして。

砕破さいは

 と叫んだかと思うと、貫いた手刀をそのまま天高くまで持ち上げ、怪物の肉体を両断したのだった。


 空から蛾の幼虫が降ってくる。何度も何度も振り払うも、やつらは張り付いてくる。一方の祖父はやはり、しっかりとした足取りでこちらへ戻ってきた。

 その顔を見上げる。未だ生きているモノ、死んでいるモノ、またその透明な体液で塗りたくられていた。しかし祖父はものともせず、渋い顔で俺を見下ろしている。

 そして一言、当然かのように言ったのだ。

「やれ」

と。

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神室來という男 境 仁論(せきゆ) @sekiyu_niron

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