神室來という男
境 仁論(せきゆ)
防人/決別
祖父に呪いをかけられた。これは
———二十一年前。二〇〇一年の秋。
「
しわくちゃな祖父の手を掴みながら山奥を進んだその先に、古い小屋があった。よく見ておきなさい、という祖父の言葉はすぐには理解できなかった。あまりにみすぼらしいその建物を突然守れと言われても幼い自分に実感が湧くはずがなかった。
「これ、なに?」
当時五歳の自分は厳格然として立っている当時の防人の長を見上げて、無垢なままそう聞いた。彼は長としての振る舞いを子どもの前であっても止めず、威厳のこもった声で応えた。
「
そう言って祖父は扉の錠を外し、その内奥を見せたのだった。
土の匂い。草の匂い。そして腐ったような、ナニカの香り。
「おじいちゃん」
足の震えを抑えようと強く手を握る。それでも祖父は顔色一つ変えず自分を奥へと連れて行った。
真っ黒な視界。その奥の奥。目が暗闇に慣れていき、そこにあるナニカの正体を自分は視認した。
そこには、土と赤い染みに塗れた白装束が落とされていた。
———一八年前。二〇〇四年の冬。
「あなたには着いていけない」
寝たきりの祖父にそう言い捨てて父は出て行った。母と自分を捨ててその男は身勝手に村の外へと出て行った。これでもう退路は無くなり、その瞬間に自分が「防人」を継ぐ未来が確定してしまった。
だがそんなことはもうわかりきっていた。祖父は鼻から父に役割を継がせるつもりはなく、昔話を嬉々として受け入れていた自分を選んでいたのだ。父は村の外の世界に思いを馳せ、自分は世界に外があることを知りさえもしなかったのだ。それが祖父の策略と自覚したときにはもう遅かった。
「大丈夫だからね、來」
母はそう言い自分を日々抱きしめた。そんな記憶がある。村の外から嫁いできたはずの母は村の中で生涯を終えることを決めていたようだった。
———一六年前。二〇〇六年春。
「來にぃ!」
獣払いを終えて畑道を通り過ぎていると、後ろから雛鳥のような足取りで男の子がついてきた。
「
そう言った途端に辰磨は足を引っかけてしまった。そのまま地面に頭から突っ伏していく。すぐさまに近づいて助けようと近づいたが、辰磨は泥まみれの笑顔を湛えて首を上げた。
「大丈夫か?」
「別に! これっくらいなんともないよ!」
服に着いた泥を払いながら弟分は鳥のように跳ね上がった。
「來にい聞いたよ! 防人になるって! じっちゃんの跡継ぐんだろ!」
「聞いたのか……そう、俺はこの村を守るんだよ」
辰磨は目を輝かせて見上げている。
「かっけえなあ……僕も防人になって、來にいと一緒にたたかいたい!」
そう言ってビシビシという音を口で発しながら、形にもなっていない正拳突きを披露したのだった。そんなごっこ遊びを鼻で笑いながら返した。
「お前はなんなくていいよ」
「ええ!」
すると辰磨は悔しがるように見返してくる。
「僕にもできるよ! 僕だって防人になれる!」
「そりゃあ誰でもなれるさ。防人って要は獣払いだからな。畑に来る猪を狩る以外に仕事はないよ。だからお前はもっとマシな仕事につけ」
ええーとがっかりする辰磨に手を振り自分は家へと帰っていった。防人の真実は、当時の辰磨が知るには早すぎたのだ。
家に戻り、数年前から横に臥せたままの祖父に挨拶する。普段は無言で見つめ返してくるだけだったが、その日だけは部屋を出て行く自分を呼び止めたのだった。
「來……防人として、やるべきことはなんだ」
のそのそと布団を剥がして起き上がる祖父の声に衰えは感じられなかった。防人の長としての態度は、身を引いた後であっても
「この村を守ること」
「そして」
「習わしを後世に伝えること」
「そして」
「……この地に己という
そこまで言い切ったところで祖父はゆらりと立ち上がった。とても細かった。衣服の下に引き締められた筋肉と数多の傷があった現役と比べて、今は骨と皮しか残っていなかった。しかし心許ない老人とは呼べない。その姿は当時の自分には、仙人のように思えて———。
「もう一度、彼の地へ行くぞ」
「———!」
その言葉を聞いたとき、ついにこの時が来てしまったと高揚した。同時に、他にあったはずの可能性の未来が閉ざされたという真実に寂しさを覚えたのだった。
夕暮れ、森の中を進んでいく。五歳のときに訪れたあの小屋に再び足を運んでいる。
「もう恐怖は無いな」
「はい」
初めてソレと対面したとき、自分は足に力を込められなくなって倒れ込んだ。何十、何百……千にも至る歳月が蓄え続けた「無」を身体全身で思い知ったとき、生きている心地がしなかったのだ。しかし、そんなたかが呪物に腰を抜かしていた自分はもういない。この日までの日々、自分は祖父の元で心身を鍛え続けてきた。
防人としての命題を背負えるだけの器はもうできている。
鬱蒼とした草木を抜けると封印の地が現れた。扉の前まで行くと祖父が立ち止まった。
「自分で開けなさい」
その言葉に振り返ることもなく、自分は扉に手をかけた。一息吐き、躊躇いなく扉を開けた。
闇の奥にはやはり、汚れた白装束が置いてあっただけだった。
「これは、人柱だったものだ」
彼女と向き合う自分に祖父が声をかけた。
「養和の飢饉……その神の怒りを鎮めるため、この女めを献上した」
「人の世の大罪人である彼女に全ての罪を着せて」
「妖と共に人を殺め、各地を恐怖に陥れたヤツを贄に捧げることで災害を終わらせようとした」
「……この罪人は、今もなお生きている」
横に立つ祖父は頷きながら続ける。
「その名は、天。地に臥す者には似つかない、大層な名だ」
初めて、祖父の声に色を見た瞬間だった。嘲るように呟いた祖父は取り直して自分に教えを与え続けた。
「いずれ、刀が来る。かつて彼女と共に世を渡り歩いた妖だ。それはいずれ、この地に辿り着く。主を取り戻すために」
何度も祖父の言っていたことだった。にわかに信じられないことだが、千年の旅を続けた一本の刀がこの土地に舞い戻ってくると。その刀から封印を守るためだけに、防人は有るのだと。
「それが、俺の代で」
すると祖父は肩に手を置いてきた。案ずるな、と言うように。ただ言葉を発さず静かに立ち続けた。
今思えば。それが最初で最後の、祖父から向けられた人間らしい感情だったのかもしれない。子を見送る親の、ささやかな羨みがこの一瞬にあったのかもしれない。
祖父は最後の最後で、やっと防人を辞められたのかもしれない。
「行きましょう。約定は俺が引き継ぎました」
そう自分は言い、この地を去ろうと背を向けた。微塵も恐怖はなかった。このしがらみを死の直前まで背負うという宿命は、既に受け入れていたのだ。
「———これは」
祖父は形のない遺体の前に立ったまま独りよがりの言葉を呟いた。
「これは、神室だけではない。かつての時代全ての人間の、功罪である」
「……?」
いつまで経っても動こうとしない老人の背中に何度も呼びかけたのを覚えている。しかし彼は何度も、
「すまない」
と、謝罪の言葉を述べ続けていた。それは、誰に対して?
家族に対して———男は家内に目も向けていなかった。
自分に対して———あまりにも、今更すぎる。
彼女に対して———あなたが、それを言うのか。
「すまない、すまない、すまない」
ずっと謝り続ける男。それをずっと眺めていた男。それをずっと眺めていた白。それをずっと覆い隠していた黒。
「すまない———すまない」
老人は痴呆になったかのようにその言葉を紡ぎ続けていた。
そこに、威厳も何もなかった。
「——————————ぐ」
静かな最後だった。
ひたひたと、泥のような滴りが地面に赤い斑点を作っていく。
俺の手は確かに、男の胸を貫いていた。
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