第10話 血の狂宴、その1

サヤの手を引きながら僕は必死に通学路を走った。

虫の顔をした恐ろしい存在が僕らに迫る!

それが僕にはたまらなく恐ろしいかった。僕は必死に足を動かす。運動は元々は得意な方ではないが僕の体は手を引いている人物がやらかした以前の所業のため、僕の身体は異様に向上していた。風より早いとまではいかなくとも運動部の生徒すら凌駕するほどの速度になっていた。

金切り声と肉と骨が軋む音を発する虫人どもの群れから僕らは懸命に逃れた。

何度も道を曲がり、あるタイミングで裏路地へと逃げ延びる。そこで僕らは虫人どもの気配が消えたことを改めて実感していた。

「…………」

「…………行ったか」

僕は周囲を見渡しながらそう呟いた。

「……悪趣味だな。私が言うのもなんだが」

「ああ。あれは……」

「虫だな。もっともあれは現世の虫ではない」

「虫?」

「簡単に言えば……寄生虫だな。まあ、君は大丈夫だけど」

「どういう虫なんだ。あれは」

「人を含め知恵持つ生き物の破壊衝動を増幅する種だな。だがあんなものが現世……しかも日本にいるなんて……少々考えづらいわね」

「どうなってる。警察……警察呼ばなきゃ」

「よしなさい」

「なぜ止める」

「……見せてあげる」

そう言ってサヤは僕の額に細い指をかざした。すると僕の目はサヤの過去、記憶と強制的に結びついていた。

僕は見せられていた。

交番、警察官、無数の虫人、殴打された死体、貪られた死体、そして悲痛でおぞましい悲鳴。虫人どもによって燃え始めた交番の光景。それを最後に僕の意識は現実へと引き戻された。

「あ……あぁ……」

「一匹や二匹ならともかく奴らは群れる。そして欲のままに食い、壊し、なぶる。……だから迂闊に相手しないことね。あなたはまだ人間のカタチを失っていないのだから」

「……ならどうする」

「逃げる。まずは食べられないよう結界や気脈のある場所に逃げるべきね。幸いにも低位の虫だから人間でもなんとかなるやつはなんとかなるわね」

「ならその前にやりたいことがある」

「……何?」

「……妹。妹の安全を知りたい」

「あらそ。まあそのくらいなら自由にしていいわ。だけどその妹さんに貴方のことがバレたら……分かるわね?」

「消すつもりか」

「最悪ね。でも記憶を弄る程度は」

「……命の保証をしてくれ」

「努力するわね。可愛い子だといいわね」

「なら安心だ」

こんな軽口を無理やり叩いていたが僕は内心では不安だった。

目の前にいる女は僕に虫を飲ませたような得体の知れない奴だった。狂気的で邪悪さすら感じる目の前の女を妹の前に同行させて良いものか僕は真剣に迷っていたのだった。だが今は状況が状況なのでどうにか平静を保つよう僕は努力していた。

「とりあえず予定通りに行く。多少のリスクは覚悟の上だ」

「ならさ……私にも手伝わせてよ」

「……」

僕は返答に困った。すると彼女は何かを悟ったようにこう口を開いた。

「私としてはただ『マガツヒ』を飲ませたわけじゃないわ」

一瞬、僕は彼女の言う『マガツヒ』の意味を図りかねた。だが数秒もすればそれが僕の飲んだ虫の名前だとようやく僕は悟った。

「それが分かっててなぜ?」

僕の声色にはやや怒りの色が出ていた。得体の知れないものを飲まされた嫌悪である。

「死ぬには惜しい。死んでほしくない。私はそう思ったのよ」

「だからって」

そこまで言った時、サヤは真剣な目でじっと僕に向き直った。

「……な、何?」

「これからはこんなものじゃないわ」

「え……」

サヤは端的にそう発言する。彼女の声色はさっきまでの傍観者然とした傲慢な調子が消えていた。サヤの目はどこか見下すものから教え諭すような真剣なものへと変貌していた。僕はそれを見て調子が狂う。

「行くんでしょ。早くしないと悪いことになるわよ」

そう言ってサヤが僕にじっと目を見据える。

「……こっちだ」

それから僕らは黙って目的地まで目指した。今はとにかく一刻を争っていた。

昼間だというのに僕は周囲が薄暗いような錯覚を覚えつつ僕は道を急ぐ。

今いる地点から黒田山中学校を目指して必死に道をしばらく走ると、ある地点から悲鳴や泣き叫ぶ喧騒が金切り声と共に聞こえ始める。

「…………ぐ!」

僕は走った。必死に嫌な想像を振り切りながら道をひたすらに疾走する。

道中、金切り声と共に鉄臭い匂いと嗅いだことない臭みが周囲を漂っていた。

「なんだ……この匂い……エリナ!!」

僕は恐ろしい想像が再び過ぎった。その度に僕は足を動かすことに専念する。

そして、僕は見た。

あまりにおぞましい光景を見てしまった。

中学校に無数の虫人が群れ集まり、片っ端から人を食い殺していた。

ある虫人は女子中学生の腹部に群がって引き裂かれた腹部から管のような臓物を貪っていた。

ある虫人は男子中学生の頭部と胴体をひたすら引き千切っていた。虫の雄叫びと共に男子は血飛沫と共に胴体を分解されてしまっていた。

ある虫人は他の個体と共に教員らしき男の四肢を牛裂きの要領で二つの方向から強烈に引き合った。

「や、や、やめろ……やめろ……あぎぎぎぎぎぎがががががががががががががぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

哀れな犠牲者の男は耳をつんざくような悲鳴と共に四つに引き裂かれていた。彼の肉体から多量の真っ赤な血飛沫と肉片が周囲に撒き散らされる。

「ギィエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!」

「ギィエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!」

犠牲者の絶命と共に甲高く狂った雄叫びが辺りに響く。

その光景の凄惨さに僕は顔から血の気が引くのをはっきりと感じた。僕の鼻腔が血の匂いを、本能が危険を告げていた。吐き気以上に背筋に冷たいものを感じた僕はひたすら逃げ出したい衝動に駆られていた。

だがそれ以上に僕は破壊衝動に駆られていた。

その気持ちはサヤに入れられた『マガツヒ』のためなのか自分の狂おしいほどの憤怒のせいなのか分からなかった。ただ、僕はひたすら無性にあの人型の虫けらが憎くてしょうがなかった。

僕は僕が人型の虫どもに憎悪を抱いたと同時に駆け出した。

手始めに僕は手近な二匹を軽く殴った。

グシャッ。

蜜柑を潰すように僕は死体を食う二匹を片手で潰した。僕はただ片手で同時に殴りつけただけに過ぎなかったが虫の人らは呆気なく潰れて息絶えた。

「……うう……う……憎い……憎いぃぃ……憎いぃぃぃぃ……」

僕は唸るようにして虫どもの群れに突進する。衝動だけが僕の中にあった。

「て、てめえ……てめえてめえてめえこここ殺す殺すここここコロコロズズズうずずず殺す殺すグググゲゲゲギギギギギギギギギギギ……」

虫は人の体でそう言っていた。

僕に人の言葉でそう言ったようだが関係なかった。僕は衝動のままにまた一匹に向かって今度は殴りつける。

力加減を間違えたか。僕は虫をバラバラに潰した。

具体的には虫人は僕が胴体を殴りつけると同時に自動車に跳ね飛ばされたような吹っ飛び方をした。数メートル地面を跳ねるように転がると辺りに紫の体液を撒き散らしながら虫人の四肢が転がった。頬に体液を浴びた生き残りの女子中生がギャアギャア悲鳴を上げて逃げ出してゆくのを僕は横目で見た。普段なら申し訳ないという気分になるがそれ以上に目障りな虫どもを潰すことに心を奪われていた。

バラバラに。バラバラに。

バラバラに。バラバラに。

バラバラに。バラバラに。

僕は向かってきた虫どもをひたすら殺し続けた。

その過程で全身に切り傷をつくったが、どれも擦り傷程度でしかなかった。

「ギィ、ギィィ……」

何匹かその場から逃げようとしたが、それは更なる絶望だと僕は思った。

逃げようとした虫の方向にはサヤがいた。

「……エァ!エァ!ジャイニ、エムル、ムグナウ!……糸よ、糸よ、贄捧げ、祈り、絡めとる。我が名において……永劫に絡めとり、食する。豊穣よ、豊穣よ、満たせ満たせ満たせ……!」

ベリ……。

サヤは何かを唱えると何もない空間から見えない何かが虫人の体を削り取った。それはパンか何かを食べるようにあっさりと虫人の上半身を消滅させる。

否、見えない何かは虫人を食いちぎったのだ。その近くに何かがいた。

それに続くように隣の個体も何かに噛みちぎられて絶命する。

……ブチィ。

肉や骨が引き裂かれるような音と共に虫人は紫の液体と赤い血飛沫を撒き散らして絶命する。

それを見てまた別の個体が怯え、その隙に食いちぎられる。

……ブチィ。

別の個体がまた見えない何かに食いちぎられて絶命した。赤い飛沫が飛び散った。

……ブチィ。

別の個体が頭を食いちぎられていた。頭部のあった場所から紫の体液が飛び散る。

……ブチュ。

別の個体が見えない何かに潰される。虫人は見えない何かに圧縮されたように潰れていた。

ブチュ……。

次々と虫人が潰されては食べられた。辺りに肉片と真っ赤な血飛沫が飛び散る。

「ギィィィィイイ!!」

虫人は吠えた。そして奴は吠えた数秒後に血溜まりとなった。

そして僕の周りはサヤ以外の生命はいなくなった。ふと僕が血溜まりに目をやる。反射した血溜まりの水面に僕の顔が反射する。僕の顔にはタトゥーのような紋様が現れていた。

まただ……。僕は内心でそう思って顔に手をやった。僕は僕の異常に興奮する心を無理やり抑える。

「興奮がおさまれば気脈は消える。安心していいわ……ほら、深呼吸。して」

そう言ってサヤがコンパクトを差し出す。その鏡を見ると血飛沫の赤い痕は残るが元の僕の顔があった。呼吸が戻った時には僕の顔のタトゥーみたいな紋様は消えていた。

「……妹だ。妹が先だ」

「やっと分かってきたわね」

「全部信じるわけじゃない」

「それでも、ね」

「……行くぞ」

僕は複雑な気持ちになる。サヤは今のところ味方だが本心を決して僕に見せない。それに気を揉んでしまうが、どうには平静を保った。保たないと今は不味かった。

妹のことが心配だ。僕はただエリナの無事を祈ることしかできなかった。

そんな気持ちで校舎へと進む。

「だあれ!?」

僕は女の子の声がした方角を見る。そこにいたのはエリナではないが、見知った顔があった。

「……お前は!?」

僕は壁際に隠れていた人物の顔を確認する。そこにいたのは、なんと僕の見知った人物であった。

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