第二章 悪意の牢

第9話 エリナの異変

来栖エリナは僕の自慢の妹だ。

茶のツインテールと快活な笑顔、家族想いで優しい性格。僕と違って人望も美貌も愛想もある、バスケも得意で友達もたくさんいる、エリナは街のみんなの太陽だ。

そんなエリナが酷く思い悩んだ様子を見せるようになった。

西暦二〇〇六年六月某日のことだ。

僕が学校から帰ると彼女は真顔で俯いた様子を見せることが増えていた。最初は取り繕うように笑顔を見せることもあったが、だんだんとそれも無くなっていた。

「エリナ。最近どうした」

「…………お兄」

エリナは何かを言おうとしたが、青ざめた顔をするばかりでそのあとはただ押し黙るだけだった。明らかに様子が変だ。父の前だと普段通り笑顔を見せるがぎこちない。学校に行くのを躊躇するような素振りすらある。

「……まさか」

僕は恐ろしい想像をした。

エリナ、もしくはエリナの親しい人物がいじめを受けている可能性だ。

僕はたまらなく恐ろしい気持ちになった。そしてそれ以上に湧き上がった感情があった。

溢れんばかりの怒りと殺意だ!

僕は腹の奥底から強烈な破壊衝動に駆られた。

その瞬間、僕の身体にトライバルタトゥーのような紋様が浮かぶ。

僕は悟った。僕は僕の身体を走る気脈を生き生きと感じてしまっていた。

そのタイミングで僕は感情ごと気脈を無理やり押さえ込んだ。

「お兄……?」

「……なんでもない」

僕はその時決意した。学校に潜入し、妹の異変を調査すると。

その日、夕方も終わりそうな頃合いに僕は携帯でイチ君やアキ君と連絡を取った。そして僕ら三人は地元のハンバーガーチェーン店で食事をとりながら、僕の妹のことを話し合った。

「……警官になる勉強がある。手早くな」

「そういうな。どうも深刻な悩みのようだ。前の事件のこともあるから気になるところだ」

二人の気遣いに感謝をしつつ、僕は本題へと移った。

「ありがとう。でも今回はそれとは別だ」

「別?」

「深刻なことなんだろ?」

「ああ、妹のエリナのことだ」

「妹さんか。良い子だよな」

「ああ、家族も世話になった」

「そう。そのエリナのことだ。……最近様子が変なんだ」

「……つまり?」

「恋煩いとかでは?」

「茶化すなよ。でもそれとは明らかに別の悩みを抱えてそうだ」

「……いじめか?」

「ああ……だが、黒田山中のバスケ部は結束強くて仲間意識が強いはずだ。直接手を出すとは考え難いが……エリナは何も言わなくてな」

「……他人に危害を加える奴らに限度なんて気の利いたものはねぇ。見境なく手をだすなんておかしくねえからな」

「それに実態は……なんてことはよくあるからな……俺も……といけねえ」

「可能性がある。だから心配だ。確証と近況を知りたい」

「それならよ。俺。調べてやろうか?」

イチ君は飄々とした笑みを浮かべた。こういう時のイチ君は頼もしい。

「え?」

「友達の頼みだ。俺顔広いから調べてきてやる」

それを見てアキ君も真剣な表情を浮かべた。

「俺も探ってくる。こういうのはゲスな連中に吐かせた方が早いからな」

「じゃまた。二日はかかるだろうな」

「何かわかったら伝える。携帯出ろよ」

「ありがとう」

そう言って、二人が店を出た。お金は二人が払うと言ってきた。僕は一度遠慮がちに断ったが二人は気を遣って払って行った。

「すまない」

僕はそう言って夜食のポテトフライを平らげた。

僕の身体は前よりも筋肉質にはなったが、食欲が増す上に破壊衝動に苛まれるリスクが常につきまとっていることが不便だった。


そして、一抹の不安と共に僕は夜明けを迎えた。

僕は普段通り学校に向かう。

「エリナ、行ってくる」

「…………うん」

僕は妹が気がかりだった。だが僕は忍耐の姿勢を心の中で無理やりに保った。

友が真相と対抗手段を講じるまでそう思って僕は学校へと向かう。

電車に揺られた後、通学路を普段通り歩くと僕の視界に奇妙なものが映った。

「…………うん?」

僕は不意に不審な中学生の姿を見た。

「…………」

明らかに奇妙な風体であった。

見た目は完全に不良中学生であったが、どこか目が正気とは思えなかった。着崩した学ランに派手な柄のワイシャツ、そして口から滴る唾液とただならない目つきをしていた。

そう、目だった。

目の奥にあったのは取り憑かれたような激情と無軌道な暴力性、無秩序な闇だけがあった。

「…………」

僕は何かが不味いと思った。そう思い僕は彼から距離を取った。

「…………ギ」

不良の男子は僕に顔と目をを向ける。それは人間の向ける目ではなく肉食獣の目つきをしていた。

「ダメだ……来るな」

一足。

一足。

一足。

僕はゆっくりと距離を取りながら不良に向かってそう念じた。

僕はこのまま学校まで遠回りできることを願っていた。

だが、現実は非情だった。

「……ギギ……ギ……」

不良のような男から昆虫のような唸り声が鳴る。

『避けられない』と僕は即座に悟った。両手で握り拳を作り構えを取る。素人の腰が引けた構えだが何もしないよりマシだった。

「グギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ!!」

その男子の顔が不意に裏返る。彼の顔の皮膚が何かの力に引っ張られるようにして左右に裂けた。真っ赤な血飛沫と共に複眼と鋭い顎肢が皮膚の合間から垣間見える。人間の顔の部分も裂けた状態で僕の方に視線を向けてきた。

その変貌の凄まじさに僕は胃の中から不快感が込み上げてきた。吐き気だ、僕の胃腸が目の前の現実に拒絶反応を示す。

僕の中の湧き上がる恐怖心が僕の顔から血の気を引かせてしまう。

そして虫男は飛びかかってくる!

「ゲェェエエエエエエエエエエエエエエッ!!」

甲高い雄叫びと共に距離を詰めてきた虫男は僕に向かって噛みつこうと突進した。僕は素人ながらその牙のような器官から飛び退くように逃れる。

「来るな!」

僕はその場から逃げ出す。全身に湧き上がる危険信号によって僕の身体は脱兎のように虫男から逃れようと走り出した。

「ギギギギギギいッ、ギゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲェぇッ!」

人間の声とも虫の羽音とも似た音を発しながら虫男は僕に襲撃を試みる。虫男は右手を突き出すようにして僕へ攻撃をしてきた。

走っている僕の肩に攻撃が掠める。虫男の攻撃はアスファルトの地面を穿ち、軽々と腕を引き抜いていた。

「ああ……クソ!!」

僕は草むらの中に逃げ出す、その間に周辺に武器に使えるものはないかと調べた。

「これだけか」

誰かが捨てていったのか落ちていた金属バットを僕は見つける。錆びついてはいたが武器にするには十分な代物であった。

虫男は僕の方へ滅茶苦茶に突進をしてくる。そのすれ違い様に僕はバットを振りかぶった。

えいっと僕は掛け声を上げながらバットを振りかぶると虫男はよろめいた。

「ギャ……ギギャ……」

虫の男が呻く。僕はチャンスだと確信した。

ふらついた虫男の頭部に僕は再度バットを振りかぶった。

振りかぶって殴る。

振りかぶって殴る。

振りかぶって殴る。

何度も化け物を殴りつけた。

周囲に紫の体液が周辺に散らばった。そして虫男は動かなくなった。

「……なんだよ……こいつ」

僕はその場に膝をついた。化け物との戦いはこれで二度目だったが今回は人間としての自我があった。僕はその時以上に自己嫌悪に陥った。僕は僕の意思で生き物を殺害したのはこれが初めてだったからだった。残酷なことに慣れてゆく自分の感覚に心底嫌気が差していた。そのためか僕は胃の辺りから不快なものが再度湧き上がってきた。

「……あら、やるじゃない」

気配はなかった。艶美な美少女が微笑みと共に僕へと近づいてくる。

いつの間にか僕のそばに『葛城サヤ』が立っていた。

「……うわ!?」

僕は思わず驚きの声をあげる。思わず金属バットを彼女に向けていた。

「落ち着きなさい。眷属に危害を加えられたから来たのよ」

「来たって……君のでは?」

「失礼ね。私は眷属の質にこだわるのよ」

「なら、なんなんだ……」

「魔術師ね。こんな歪な虫は」

そう言ってサヤは虫の肉片を拾い上げる。するとサヤの綺麗な指にするんと吸い込まれるように肉片は消滅していった。

「消えた……?」

「飲んだのよ」

「嘘だろ……?」

「本当に決まってるでしょ?貴方もできるわよ」

「マジか……それより、葛城さんは……」

「サヤって呼んで」

「え?」

「サヤって呼びなさい」

「……サヤはこの虫の正体を何故知っているの?」

「当然でしょ。私は『蜘蛛の女神』よ」

「蜘蛛……昆虫ではないが虫ではあるか」

「そういうこと。この虫は足が無数にあるわね。しかも歪」

「ムカデか」

「いい着眼点ね。その可能性はあるわね」

「足の多い虫といえばそうだからなぁ」

「そういうことね」

「詳しいようだからサヤには僕に色々教えて欲しい」

「いいわよ」

そう返答する彼女の顔は少女のような明朗な笑みがあった。それを見ると僕の中にどこか不思議な気分が湧き上がってきた。それは妹に向けるようなどこか暖かな気持ちだった。

それは虫や粘液や触腕を入れられて湧き上がる気持ちだと僕は思うことにした。眷属としての敬愛の感情だと思いながら僕は質問を重ねる。

「この虫が人工だってどうやってわかったの」

「質の面でも、材料の面でもこんな虫を作り出すのは魔術師しかいないからよ。大体何よこの内臓と甲殻と関節肢は。随分と粗末な出来ね」

「どういう基準……」

「そのうちわかるわ」

「……」

「それより……ここ魔界となってるわね、半分」

「え」

「魔界よ、字の通りよ」

そう言ってサヤが少し遠くの方を見る。

曲がり角の方角からガチガチという何かを鳴らす音と狼や虎のような唸り声が響いてくる。

ガチガチ……。

ガチガチ……。

ガチガチ……。

ガチガチ……。

硬いものが互いに叩き合うような音や地を這うような唸り声が響いたかと思うと物陰から虫や獣の姿をした人間のような存在が現れていた。よく見るとボロボロの着崩した制服とズボンを履いた状態で彼らは僕らの側へとゆっくりと詰め寄ってきていた。そう不良たちの成れの果てが現れたのだ。

「逃げるぞ!」

僕はそう言ってサヤの腕を引っ張った。

「あ……ちょっと……」

サヤの手を引っ張りながら僕はその場から逃げ回った。獣や虫の頭をした人型の怪物たちが猛烈な勢いで追撃してきた。だが僕らはどうにか逃げ切れた。息を切らしながら学校まで遠回りする道を僕は選んでいた。

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