第7話 黒い蜘蛛女
漆黒そのものを複雑に練り混ぜて創造したような女が僕らのほうへと不気味に微笑んだ。
女の笑みは蠱惑的な美貌以上にそこの見えない恐怖を僕らに感じさせてくる。
「…………」
「…………誰だ。いつからそこにいる?」
アキ君が女を睨みつけてそう発言する。
僕はアキ君と違って言葉を紡ぐことすらできなかった。目の前で微笑む人物はこの世の存在とは思えぬほど美しく、そして残忍さや神秘性すら感じさせてくる。その底知れない雰囲気に僕はぞっと寒気を感じていた。
何よりここはイチ君の家だ。こんなところに見知らぬ人が入り込む余地はあり得ない。あり得ないはずのことなのに彼女は敷居を既に跨いでいた。それが僕に否応なく本能的な恐怖を感じさせた。
「あら?入口で呼びかけたはずだけど?」
「……嘘だ」
その時、僕は噂のことを思い出していた。
獣の事件の裏には『黒い女』の影があったことだ。女を目撃した人物が立花邸で消息を絶っていたことだ。僕はそのことを思い返していた。僕はそのことを思い返していた。僕はそのことを思い返していた。
何度も思い返していて自然と体が強張り、汗が飛び出す。工藤教授の手先、あるいは関係者かと思った僕の体に緊張が走っていた。
「そう身構えないで……。私、話に来ただけだから……うふふふ……」
女はそう返答する。そして彼女はまた妖しく曖昧な笑みを浮かべた。
「そう言ってすぐにハイと信頼できるか?」
「そう……」
次の瞬間僕らは切り取られたようにどこかに意識が飛ばされた。
僕らはいつの間にか森のような空間に立っていた。
僕とアキ君、イチ君が横並びに立っていた。そのことを自覚して僕らはひどく驚いた。
「……え?」
僕も呆気に取られていた。
「……!?」
「……おい、なんでお前ら?」
「お前こそ……」
二人が呆然としたまま言葉を交わす。
僕らが立っていたのは神社の境内に似た屋外の空間だった。僕らはいつの間にか家の外、それも見知らぬ場所に立っていた。
松の木々に石畳、鳥居が前後に存在し、灯籠が並ぶ。されど、神社や空間の出口は存在せずただ通路だけが存在する暗い場所に僕ら三人は立っていた。
………………ガサ……。
……ガサ…………。
ガサ…………。
何かが木々をかきわけるようにして僕らに迫っていた。
「……逃げるぞ」
「逃げるってどこに!?」
「知るか。逃げないとまずい!」
「だからどこだよ!?」
イチ君とアキ君の顔から血の気が引いていた。
「どっちだ……?」
僕らは必死に耳を集中させる。
…………ガサ…………ガサ…………。
……ガサ…………ガサ…………ガサ。
ガサ……ガサ……ガサ……ガサ…………。
音が近づく。
何かが来る!
僕らの全身にある産毛が逆立つ。冷たい恐怖の感覚に僕らは神経をかき乱された。
「待て!!」
僕は咄嗟に叫んだ。
その瞬間にかきわける音が止んだ。
そして……声が響く。
「…………なぁぁにぃぃぃぃいい?」
その声はイチ君の家の時と全然違う響きがあった。それは確かに仮面の女の声であったが、声色が低く地の底を這うような声色をしていた。それは大型の生物から発せられるような異質な音を奏でていた。
「……ば、バカなことはやめろ……!?」
アキ君はささやくように小さくそう僕を制止しようとした。だが僕のこの行動には理由があった。僕は手で『向こうへ逃げろ』、『狙いは僕だ』と合図を送った。
アキくんは反対していたが何かを察したイチくんに引きずられるように声の方角と反対へと逃げ出した。
「……話ってなんだぁ!?」
僕は力の限りそう叫んだ。
すると境内の闇の中、松の木々の中から靴音が響く。
……………………カツン。
……………………カツン。
……カツン……カツン。
……カツン……カツン。
闇の中から、漆黒の女が現れた。
「…………うふふふ」
漆黒の女はまた曖昧に微笑む。
そして僕の耳元へと近づいてこう囁いた。
「……お話、聞く気になった?」
彼女の囁きに僕はゆっくりとこう答えた。
「……はい。お話ってなんですか?」
丁寧な言葉遣いではあるが一つ一つの僕の言葉が力んだ声色となる。それに対して彼女はこう答えた。
「緊張しなくていいわよ。……『あの虫の事件』、こと教えてあげる」
「……あの……虫?」
僕の問いに女が微笑む。
「そう。寄生虫。目がいっぱいの」
それで僕は確信した。少なくとも目の前の女は事件の真実に近いと僕は明瞭に悟ったのだった。その言葉を聞いて僕は質問を返した。
「失礼ですが、それは僕が先ほど遭遇した事件のことですか?」
勇気を振り絞って僕はそう言葉を紡ぐ。僕の言葉を聞いて女が笑みを向けた。
「……うふふ……そうそう、あの……『眼の御神体』のことよ」
女は優しくも底知れない笑みを僕の方へ向ける。その笑みは冷たさと恐怖を感じさせるものであった。だが彼女の笑顔には明かに興味の感情が前に出ていた。
「あれはどこから来たのです?」
「裏側から」
「裏側?」
「そう、この地球、あるいはこの宇宙はあまりに不安定なの。人類が日常と繁栄を謳歌している裏側の世界では人間程度が計り知れない神々と眷属が織りなす混沌と豊穣の領域が渦巻いているわ。……もっとも豊かすぎて人間の常識と正気を破壊するでしょうけど……クク……」
「貴女は……いったい何者なんです?」
その問いに彼女は満面の禍々しい笑みを浮かべた。
「言葉が難しいわね。強いて言うなら…………貴方の神様、とでも」
「か……?」
僕は言葉の意味を図りかねていた。
「私ね。貴方だけは滅んでほしくないの。人間にしては……魂の形、在り方、そして過去……なかなかに気に入ったわ。私の眷属として……申し分ないわ」
そう言って彼女は恍惚な笑みと共に僕の頬を少し舐めた。
「んん……うふふふ」
その異様な様子を見て僕は目を白黒させる他なかった。彼女の言葉には異常者の言葉と切り捨てるには信憑性を感じさせてるものがありすぎた。
第一に、僕は存在していはいけない生物をこの目で見てしまった。
次に、僕は僕の日常にあり得ない力を行使してしまっていた。
そして、僕の体には女の手で体内に宿された呪物が存在していた。
呪物、そう僕の体内に埋め込まれた生き物はそう表現する他なかった。
「……ふー」
僕は思わぬ返答にどう反応していいものか困ったが、聞くべきことに専念すべく呼吸を整えていた。
「……あの虫は誰が『裏側』から……?」
僕はシンプルな質問から始めた。
異質な生物である以上持ち込んだ人物がいると僕は思った。
「工藤教授ね」
「教授のことはご存知で?」
「ええ……紳士的で礼節を弁えた人物……と言いたいところだけどあの人物とんだ食わせ者ね」
「食わせ者?」
「油断ならない、と言う意味ね、坊や。もっと言うと彼、随分と歪んだ精神性をしているわね」
「そんなことどうやって……?」
「あらあら……」
女は僕の耳元に近づいて囁いた。
「……私たちね……見えるの」
「見える?」
「魂の形がね……もっとも彼の魂は通常の人間とは歪んだ在り方をしているわね。元々だけど……魔術師になってから、さらに私たちに近く、ドス黒くなっていたわ」
「……」
感覚的な言い回しであるが僕は状況を理解していた。つまり、元々教授は精神的に破綻したものを抱えており、そんな人物がそれを満たす手段に染まってさらに悍ましい人物、あるいは恐怖の存在へと変貌したことを僕は理解した。
「……彼は悪党以上の恐ろしい存在に?」
「人間の言い回しで表現するならそうね。あの人随分と好き勝手に遊んでいたようね。これまでの犠牲者はその材料、あるいは餌になったと言うことね。私はそれを見ていただけよ」
「止めないんですか?」
「こういうことは珍しいことじゃないわよ。それに邪魔したら何されるかわかったものじゃないし、魔術師という人種は狡猾で厄介だからね。しかもあいつ、めちゃくちゃ手練ね」
「厄介?」
「魔術ね。神ですら場合によっては手を焼くし」
「神ですら……」
「私も貴方も似たようなものだけどね。貴方は人間の言葉に直せば……『魔人』と呼ぶべきかしら『現人神』『鬼人』とも表現できるわね」
「では貴方は……?」
その言葉を聞いて彼女が悪戯っぽく微笑む。
「地母神ね。生まれは違うけど三人揃って女神なの」
「……神。貴方は何て名前の」
そこまで言いかけた時、彼女は僕の口元に指をやった。
「しー……神の名前、それ自体が呪文なの。だから無闇に唱えたら……」
「どうなりますか……?」
僕はあえて質問した。嫌な予感がしたが好奇心が抑えられなかったのだった。
その時、僕が見た中で過去最高に禍々しく蠱惑的な笑みを彼女は浮かべた。
「世界とか……壊れちゃうかも?」
そう言って彼女は笑う。露悪的な眼光と歪んだ口元が彼女の底知れない破壊衝動のようなものを十二分に感じさせるような恐ろしい笑みであった。
「では……これからなんと……?」
「うーん、欲張りさんね。なら……」
そう言って彼女が顔を僕のそばへと近づけた。彼女は囁くようにこう告げた。
「葛城サヤ。人の姿ではそう名乗っているわね。他の姉妹は追々紹介するわね」
「……」
そこで僕は彼女がどういう存在かを直感してしまった。
「怖がらなくていいわ。だって……」
そう言ってサヤは僕を抱き寄せる。
「貴方、私の眷属……だから」
「けんぞ……え?」
そう言って彼女は僕の唇に自身のそれを重ねた。
「ふふ……」
少女のような笑みを彼女は浮かべていた。触れるように短い触れ合いだったのに僕は体の中から羞恥と興奮と恍惚がコップの中で混成された気分となった。
そして気がつくと僕とアキ君は元の場所へと戻っていた。イチ君の家、風呂場の前、洗濯機や洗面台のある場所に僕らは再び戻っていた。
「え……え?」
「…………訳が分からねえ」
呆然とする僕らの元にイチ君が駆け寄る。
「おい、無事か」
「ああ、なんだったんだあれ」
「というか……ソウジ、お前大丈夫だったのか?」
イチ君とアキ君は僕の方へと視線を移した。
「ソウくん、本当にお話をしたかっただけみたい」
「お話だけで結界まで敷くか?」
「理由があったみたい」
「理由?」
「教授がやったこと、僕に埋め込んだ贈り物の理由」
「教授はわかる。だが虫はなんでだ?」
しばし黙って僕はこう呟いた。
「……あの人、僕に死んでほしくないって言ってた」
それを聞いて二人は顔を見合わせる
「へ?」
「訳が分からねえ」
「そりゃ僕もだよ」
「……お前、好かれたな」
「そのようだ。お前」
「…………へ?だって俺モテないだろう?」
僕はアキ君とイチ君の言葉の意味を十分に察することができなかった。地母神に虫を埋め込まれた挙句、接吻まで受けるという行動の真意がどういうことか、とうとう僕は察せられないままであった。僕は今までの経験から誰であろうと女の子に好かれるというのに縁遠い人間だと考えていたのだった。
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