第5話 猟犬が来る

僕らは一度洋館へと足を踏み入れた。

狼のような存在も不気味だが、それ以上に寂れた建物の正体を手早く調べたいのもあった。僕とイチ君、アキ君は外観を見たいと言い出した教授をどうにか説得して中に入る。

「……残念だ。この建築は興味深くてな。外装が明治から大正で見られた西洋建築の特徴が現れているんだ。興味深かったが……残念」

「後で焼き増しした写真渡しますので今は中へ……」

「やれやれだ」

そんなやりとりをしながら僕ら四人は中へと踏み入れる。エントランス、あるいは玄関口というべき吹き抜けとなった空間が広がっていた。

「うー……ゲームで見るような空間だなぁ……」

「ゲームって?」

「ミステリーとかホラゲー」

「だよなぁ……」

僕の泣き言にイチ君が反応する。イチ君は作り笑いを浮かべていたが、洋館内部のいかにもな雰囲気に圧倒されて脂汗をかいていた。その証拠に恐怖を噛み殺していたイチ君の笑顔は明かに引き攣っていた。それを見ていて教授がなぜか笑みを浮かべている。僕だからわかるがこの人はどうも人の恐怖とかを楽しんでいる節があると気がついた。

この男は悪趣味だ。直感的に僕はそう思った。僕が教授と出会った時に感じた吐き気と嫌悪感は目の前の教授の露悪的本性に対する警告なんだろうとはっきり感じたのだった。

『ああ、最悪だ』と僕は思った。

殺人鬼と暗い閉所で一緒であるような感覚に僕は苛まれていた。

「調べるよ。二階は僕が。みんなは一階を」

「一人で大丈夫か?」

アキ君の問いに僕はこう答えた。

「大丈夫。何か見つけたら戻るよ。何も見つからないだろうけど」

そう言って僕は二階へ向かった。僕は階段を登る。カーペットには埃がなかった。

埃がない、そこで僕は何かに気がついた。

「……この屋敷。誰か掃除している?」

そんな話は聞いたことがなかった。だが、明らかに人の手が入っていると僕は気がついた。この奇妙な状況に僕は酷く困惑したが、悩んでいても結論が出ないので僕は探索を続けることにした。せいぜい僕は靴の汚れを落としてから階段を上がることぐらいはした。

僕が階段を上がると二つ扉があった。片方の扉は開いていた。もう片方は鍵がしてあって入れない。僕は扉に手をかけその先を覗き見る。

ギィ……。

扉の音が響く。

僕は薄暗い通路に入り込むと、僕の目に気になる部屋があった。扉が開いている箇所だ。書斎と記されている扉だ。僕はその部屋に入ると火のついた蝋燭と古めかしい本が本棚に並べて置いてある。本の名前がない本もあるが、たまにタイトルの書かれた本を見ると僕はまたしても嫌悪感を煽られる気分になっていた。僕はふと本棚のそばにあった机を見る。そこには一際嫌悪感を煽るような題名の和本が座るように静かに存在していた。

「……なんだろうこれ……『神代魍魎記』って……」

あまり聞き慣れない古文書であった。民話関係の本だろうかと僕は頭では考えていたが、その本が放つ漠然とした重圧に僕は非常に畏怖していた。民話関係の本だろうかと僕は誤魔化すように思考する。

明らかに材質の古い和紙と糸が使われた紙の束である。古い本を興味で読んだことがある僕はこの本が四つ目綴じの和本であると即座に分かった。明治期より江戸時代より前の文章の写本であると外観と材料から僕は分析する。そして表紙のタイトル。墨で丁寧に記された『神代魍魎記』とい字の意味が僕の心を少なからずざわつかせた。直感であったが僕は目の前の本の一つが本物の古書であると直感的に悟っていた。

「…………」

僕はその本に手を伸ばそうとした。

だが、その時だった。

……アォォォォン…………。

狼の声が近かった。僕はそう思った。それと同時に僕は僕の脳裏で恐ろしい想像が掻き立てられた。

「……声が近い……!?」

僕は反芻するようにしてその言葉を呟いていた。

僕は弾かれるように走り出す。部屋を廊下を駆け出すと狼の唸る声と人の声が混じった騒音が大きくなる。

「アキ君!イチ君!」

僕はそう叫びながら廊下を疾走する。途中で転倒しそうになりながら僕は必死に友のもとへと向かっていった。エントランスへと到達したが友の姿はなかった。だが所々に血の痕と物が破壊された形跡だけが残っていた。

「……な、なんだよこれ」

僕は混乱した。脳みその中で最悪の可能性の想像と恐怖心が肥大化してゆくのを強く感じていた。それを振り払うようにして僕は外へと駆け出してゆく。

外へ、外へ、僕は友を探して駆け出して行った。

「……ど、どこだ……どこだ!!」

僕は叫ぶようにして周りを見渡す。森のある場所に二人分の足跡とそれとは別の足跡が地面に刻まれていた。僕は足跡の方へと駆け出そうとする。

「来るな!!」

イチ君がそう叫ぶ。普段の彼からは考えられないほどの強烈な怒気に似た叫びであった。僕の足はたまらず止まる。

そして……僕は見てしまった。

狼だと思っていたものの正体を、その忌まわしい姿を、滴り落ちる不浄の粘液を、僕は見てしまった。狼に似たその生き物は哺乳類の面影が確かにあった。だが白銀の毛皮をした異形の鉤爪と昆虫の顔に似た歪な表情、そして背面から伸縮する毛髪のような触手の束が僕の背筋を凍らせるには十分な姿をしていた。

昆虫の顔に似た、そうだあの生き物は蜘蛛に似た顔の構成をしていた。一対の牙に複眼、獣の鼻と口をしていながら口の中には粘液と物を砕く構造をした穴が存在していた。

この世に存在してはいけない生き物。

子供に過ぎず取るに足らない僕の脳みそは瞬時にそう言葉を紡いでいた。

「なんだよ……これ……」

体から血の気が引き、全身の筋肉が強張る。僕は無様に倒れつつも後退するしかなかった。

「ぅぅうううう……ぐるるるぅぅ……」

狼に似た肉食のものは異様な鳴き声、あるいは唸り声を発しながら僕の方へと歩み寄ってきた。

一歩。

一歩。

一歩。

一歩。

一歩。

僕は『来るな来るな』と心の中で悲鳴をあげていた。

よだれとも血液とも見分けのつかない粘液を口から垂れ流しながら『狼のようなもの』は僕の方へと詰め寄ってきた。

一歩。

一歩。

一歩。

僕を品定めするようにじっと見ていた。

「あ……あぁ……」

「アオォォォォン!!」

獣が叫ぶ。僕は混乱した状態で這いずるように化け物から逃げていた。化け物が触手で僕を潰そうと迫っていた。

そこに何かが飛んでくる。

鞭のようにしなる触手とは別に弾丸のように飛来するものが確かに僕には見えていた。

光、あるいは矢のような何か。それは目の前の化け物の触手の一つを切断していた。怪物は甲高い悲鳴を上げながら触手の断面から緑色の体液を撒き散らしていた。

「イチ……君?」

イチ君の手には何か銃ともボウガンとも違う異形の武器があった。

「……ソウ君、君は逃げろ」

「え?」

「狙いはお前だ、逃げろ」

「そんな!お前!」

「いいからいけ!僕らは『教授』に嵌められたんだ!」

獣がイチ君の方へと駆け寄る。だがそこにアキ君が鎖のようなもので応戦する。

「オオラァ!!」

アキ君は荒々しい表情を浮かべながら獣に痛烈な一撃を喰らわせる。

「シンイチの言った通りにしろ!狙いはお前だ!」

僕は目の前の光景に心底恐怖していた。まるで悪い夢を見ているような光景の中で僕はよろよろと逃げ出すことしかできなかった。僕自身は、逃げ出すよりも二人の助けになりたかった。だが僕は今の状況で一番の役立たずだと悟ることしかできなかった。

助けを。

僕は恐怖で軋んだ頭の中で一つの考えに到達していた。

あの屋敷には人の住んでいる形跡がある。誰かがいる。微かな可能性を希望というならそれに僕は縋りつきたいと思っていた。助けを呼ぶという目的のためだけに僕は駆けた。存在してはいけない怪物に二人の見たことない神通力に、教授の裏切り。僕はあらゆる変化に混乱しながらも洋館の方へと必死に走っていった。

途中で雨が降る。

体が雨粒と汗でめちゃくちゃに濡れる。僕はそれを気に留めることなく洋館の方へ駆け寄った。エントランスに到達した時には僕は息を乱していた。

……アォォォォン…………。

化け物の雄叫び、そして何かが外から洋館の方へと迫っていた。

『逃げないと!』と僕は本能的にそう思った。僕は洋館の奥へと身を隠す。廊下から部屋へ、部屋から廊下へ。

アォォォォン。

化け物の声がエントランスの方から響いていた。僕は化け物の目から逃れるべく電灯も火の光もない闇の中を進んで行った。孤独な闇へと僕は進むしかなかった。

そして、僕はある地点で闇の中で息を殺す。

闇の中、僕は一人そこにいた。

雨音が響く屋敷、立花邸の中で僕は耐えていた。







僕が目覚めたのは小さな小屋の中だった。

「わぁぁあああ!!」

僕は悲鳴を上げる。小屋の中で僕は毛布だけをかけられていた。僕はしばらく混乱していた。

三人の女、友の異常な戦い、教授の裏切り、そして狼に似た異形の怪物。

落ち着かなくてはと僕は周囲を確認する。仮面の女からの『贈り物』と『怪物』とを悪夢だと断じたかったが、僕の冷静さを取り戻した脳はそれが夢ではないという結論を出すだけだった。

僕はそんな僕の脳を恨めしく思うばかりだった。

僕は生きるために周囲を見渡した。部屋の中央には囲炉裏のようなものが存在する。僕がしばらく部屋の様子を観察してみる、すると薪割り用の斧、懐中電灯、油の切れたランタン、薪、何かの毛皮、狩猟刀と鞘の代わりとなる皮袋が小屋の中にあった。

「……お借りします」

斧と狩猟刀を拝借し、律儀にそう僕は呟く。

そうして僕は小屋の外へと出た。

扉。

扉には札のようなものがあった。

ふと僕は小屋の方を見ると同じような札が何枚も貼り付けてあった。

札には蜘蛛と触手と雫の紋様のようなものと『封』という字が流麗な字体で書かれていた。

不意に、世界の色彩と明暗が反転するような錯覚に僕は陥っていた。

獣の唸りのような声が小雨の山奥に響く。

「う……うあ、う……アァアァ……」

僕は獣のいる方角へと唸っていた。

それは恐れではなく、飢えたものが発する渇望の声だった。

なぜ、と僕は理性では疑問を感じたが暴力的な僕自身の感情によって疑問が洗い流される。

体が乾いたように血を欲する。胸元が熱くなる。僕の口から獣のように唾液が滴った。

僕は湿度の伴った笑みを獣の方へと向けていた。

獣が一瞬怯んだような声を出すと、今度は凶暴に咆哮しながら草むらの中から飛び出してきた。

仮面の女か、僕に何かを植え付けたあの三人のせいかと頭で自分の状況を見つめながら獣の触手の一本を斧で器用に切断した。異形の獣が悲鳴の雄叫びを上げる。

「……あは、あはは!」

僕は新しい遊びを覚えた子供のように無邪気な笑い声を上げていた。僕の心の枷のようなものが外れ暴力だけが前へと衝動的に躍動していた。僕は僕の変化に心の片隅で戸惑いながら獣への狩猟を開始する。

僕の全身そのものがさっきまで恐れていたはずの獣の血液を不条理に求めていた。

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