第6話 鴨川ワイルド

「さぁ、盛り上がってまいりましたが、今宵もこれがいよいよ最後となります。勇敢なるワイルドの一人にして、歴戦の覇者、可児勝殿です!」


 ステージに降り立ったのはあの可児先輩であった。私をほったらかしにしてどこに行ったのかと思っていれば、そんなところにいたのか!


 私は激怒した。必ず、かの変態縞パジャマの先輩を除かねばならないと決意した。私には恋愛がわからぬ。私は、一介の大学生である。強がりを吹き、ベッドと休日を共にして暮して来た。


 けれども恋愛に対しては、人一倍に敏感であった。大学進学を機に田舎の村を出発し、野を越え山越え、はなれたこの京都の街にやってきた。私には女友達も、彼女も無い。女房などいるはずも無い。十六の、内気な妹が居ればよかったと妄想する日々だ。そんな私がはるばる京都にやってきたのだ。


 まず、四条河原町に行き、それから都の大路をぶらぶら歩いた。歩いているうちに私は、街の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、街の暗いのは当たりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、鴨川全体が、やけに寂しい。のんきな私も、だんだん不安になってきた。


 ひっそりと鴨川で酒を飲んでいた若い衆をつかまえて、何かあったのか。受験前に鴨川に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、鴨川に等間隔でカップルが並び、賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。


 しばらく歩いて老爺に会い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。私は両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


「ワイルドは、男を鴨川に突き落とします」

「なぜ突き落とすのだ」

「女性に野生の気を操られている、というのですが、誰もそんな、野生の気を操られては居りませぬ」

「たくさんの人を突き落としたのか」

「はい、はじめはまだ付き合って二週間の初々しいカップルを。それから、結婚間近の熟年カップルを。それから、ナンパ男を。それから、酒に酔っ払い女性にウザがらみしている中年男性を。それから、メロンブッ〇ス帰りの大学生を。それから、賢臣のワイルドたちを」

「おどろいた。ワイルドは乱心か」

「いいえ、乱心ではございませぬ。恋愛を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、ワイルドに参加するものたちの心をも、お疑いになり、少しでも女性と話をしている者には、同人誌を差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、鴨川に突き落とされます。今日は、六人突き落とされました」


 聞いて、私は激怒した。


「あきれたワイルドだ。生かしておけぬ」


 私は、単純な男であった。先輩に誘われるまま、そのワイルドの集会にはいって行った。たちまち私は、男たちの肉壁によって包囲された。わけのわからない演説を聞かされ、私の心の傷を短剣で傷つけるような体験を思い出し、私の心の騒ぎが大きくなってしまった。そのため、私も心の整理もつかぬままにステージへと乗り出していた。しかし、観客席にいた男たちに瞬く間に捕らえられ、私は先輩の前に引き出された。


「この豆腐メンタルで何をするつもりであったか。言え!」


 可児先輩は静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その先輩の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


「鴨川をワイルドの手から救うのだ」


 私は悪びれずに答えた。


「おまえがか?」


 先輩は、憫笑した。


「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」

「言うな!」


 私は、いきり立って反駁した。


「人の恋愛を邪魔するのは、最も恥ずべき悪徳だ」

「邪魔するのが、正当な行為なのだと、わしに教えてくれたのは、この世の中だ。女性の心は、あてにならない。恋愛は、もともと野生の気を御せぬものたちによるものさ。自由にさせては、ならぬ」


 先輩は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。


「わしだって、彼女がほしいのだが」

「なんの為の彼女だ。自分の地位を守る為か」


 こんどは私が嘲笑した。


「罪の無い人を鴨川に突き落として、何が彼女がほしいだ」

「だまれ、下賤の者」


 先輩は、さっと顔を挙げて報いた。


「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ」

「ああ、先輩は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと彼女をつくる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ――」


 言いかけて、私は足もとに視線を落し瞬時ためらい、


「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに今宵の時間を与えて下さい。たった一人の女性に、会いに行きたいのです。朝日が昇る前に、私は彼女に告白し必ず、ここへ帰って来ます」

「ばかな」


 先輩は、しわがれた声で低く笑った。


「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「そうです。帰って来るのです」


 私は必死で言い張った。


「私は約束を守ります。私を、今宵だけ許して下さい。あの人が、私の告白を待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、私の秘蔵の同人誌コレクション、あれを、人質としてここに置いて行こう。私が告白することができず、朝日が昇るまでにここに帰って来なかったら、あの同人誌を全部燃やして下さい。たのむ、そうして下さい」


 それを聞いて先輩は、残虐な気持で、そっとほくそ笑んだ。


(生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして同人誌を、朝焼けと共に燃やしてやるのも気味がいい。恋愛は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その同人誌を全部燃やしてやるのだ。いや、気に入ったのだけ残しておこう。世の中の、紳士オタクとかいう奴らにうんと見せつけてやりたいものさ。)


「願いを、聞いた。その身代りを持ってくるがよい。朝日が昇るまでに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと燃やすぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」

「なに、何をおっしゃる」

「はは。同人誌が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」


 私は口惜しく、地団駄を踏んだ。ものも言いたくなくなった。


 私の秘蔵の同人誌コレクションは、深夜、歌舞伎ホールに召された。先輩の面前で、自らの性癖が晒されていることを恥じた。私は、同人誌との思い出を走馬灯のように思い起こした。同人誌たちは無言でうなずき、私をひしと抱きしめた気がした。友と友の間は、それでよかった。同人誌は、縄で縛られた。私は、すぐに出発した。初夏、満天の星である。


 私はその夜、一睡もせず鴨川の路を急ぎに急いで、走っていた。

 私は、今宵、彼女に告白する。あの未だ話すこともままならず、早朝ランニングすら鶏野郎に阻まれた、夢乃宮霞に。彼女に告白する為に走るのだ。真鍋先輩ではない。私が真に恋をしたのは彼女に他ならないのだ。ついでに、本当についでに身代りの同人誌を救う為にも走るのだ。先輩の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。


 そうして、私は告白する。若い時から名誉を守れ。若い私には、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。千本今出川を抜け、堀川今出川を横切り、烏丸通りを抜け、鴨川についた頃には、息もきれきれになり、足は重く、ぜいぜいと喘いでいた。私は額の汗をこぶしで払った。ここまで来れば大丈夫、あとは彼女の姿を探すだけだ。


 しかし、一刻といえども、むだには出来ない。月は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら鴨川を下り、三条あたりに出て、ほっとした時、突然、目の前に一隊のワイルドが躍り出た。


「待て」

「何をするのだ。私は陽の昇らぬうちに彼女に告白をしに行かなければならぬ。放せ」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」

「私には同人誌の他には何もない。その、限りある同人誌も、これから先輩にくれてやるのだ」

「その、同人誌が欲しいのだ」

「さては、先輩の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」


 山賊たちは、ものも言わず一斉に私に襲い掛かってきた。私はひょいと体を倒してそれを躱し、鴨川へ向かって走った。しかし、後ろからはまだ追いかけてくるワイルドたちの気配。


「気の毒だが正義のためだ!」


 猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って鴨川を下った。一気に鴨川を駈け降りたが、流石に疲労し、私は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、泣き出した。


 ああ、ワイルドを三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た一介の大学生よ。真の勇者よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。愛する同人誌は私を信じたばかりに、やがて燃やされなければならぬ。私は、稀代のヘタレの人間、まさしく先輩の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。


 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、それもそうだ。ここは鴨川だ。水を両手で掬って、一口飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生れた。


 そうして立ち上がった私は河童に足を引っ張られた。


 ぼちゃん!


 私は鴨川に落ちた。ガボガボと悲鳴を上げている間に、服を脱がされ、かろうじてパンツと尻の穴だけは守り切って陸へ上がった。これ以上、時間をかければ新たな追手が来てしまうと悟った。私は走り出した。


 走れ! 鴨川ワイルド! 私が真のワイルドを証明するのだ。


 深夜、鴨川に居座る人々を押しのけ、跳はねとばし、私は黒い風のように走った。鴨川で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、飛び石を飛び越え、少しずつ沈んでゆく月の、十倍も早く走った。一団のワイルドとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。


「いまごろは、同人誌も火の面前に置かれているよ」


 急げ。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。私は、パンツ一丁であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から痰が噴き出た。


 見える。はるか向うに小さく、四条河原町が見える。そこに彼女の姿も見えた。私は走った。パンツ一丁で走った。彼女の隣には男がいた。彼女の彼氏なのかもしれない。しかし、そんなことは関係ない。そう、関係ないのだ。私は彼女と彼氏の邪魔をするために走っているのではない。彼女に告白するために走っているのだ!


 まだ日は昇らぬ。最後の死力を尽して私は走った。私の頭には彼女のことしかなかった。それ以外何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。そのまま、突っ込むように彼女の隣にいた男を突き飛ばした。


ぼちゃん!


男は鴨川に落ちた。


「私は、あなたが好きです」


 私は告白した。朝日はまだ昇っていない。間に合った。私は彼女の目をじっと見つめていた。彼女も私の目をじっと見つめていた。今、私たちは惹かれ合っている。そう感じた。真のワイルドとは野生の気を御することではない。その野生の気を持って女性を魅了することなのだ。男性としての強さを証明すること。そして、鴨川に男を突き落とす。この行為が京都の文化に根付いた「男としての優位性」をアピールする手段であったのだ。


 私は彼女の手を取った。彼女は私の手を握った。自然な動きであった。そのまま、私は歌舞伎ホールへと戻ろうとは思わなかった。私と彼女が共に行く先は自然と決まっていたように思えたからだ。


 私はワイルドをもって彼女を勝ち取った。もはや同人誌が燃やされてしまうことを防ぐことよりも、彼女との時間を過ごすことの方が、私にとっての重要事項であった。


 しかし、私と彼女との行き先には歌舞伎ホールにいたはずのワイルドたちが集まっていた。先輩は群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。


「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。恋愛とは、決

して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」


 どっとワイルドたちの間に、歓声が起った。


「万歳、ワイルド万歳」

「いや、帰れよ」

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鴨川ワイルド チャガマ @tyagama-444

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