第2話 勧誘
つるっぱげの老人演説に湧き上がる観客に私は呆然としていた。ここは何処かの歌舞伎会場であることはわかる。しかし、そこに集まった観客たちは日本の誇るべき伝統文化に関心のある者たちとは思えない。むさ苦しい男共が恐ろしい人口密度でこんなところに集っているのである。
あの男は何を言っているのだろう。そして今、私の周りにいる大勢の童貞と思わしき人々は何を盛り上がっているのだろう。早くここから逃げた方がいい。私の第六感がひしひしとそう告げていた。
どうしてこんなことになってしまったのか。それを説明するには幾分か時をさかのぼらなければならない。
始まりは約一週間前にさかのぼる。
「やぁ、元気しているかね? 松原くん」
「はぁ、元気ですよ。可児先輩」
京都にある某大学部室棟三階の右端に位置する一室。我らが『サークル・エアギター部』の部室で、私と可児先輩は業務用の長机二つを挟んでパイプ椅子に腰かけていた。可児先輩はこのサークルでも異質の存在である。まぁ、このサークルにまともな人物が在籍しているかと問われれば難しいところではあるが。
可児先輩は私の一つ上の先輩である。サークルの部長にして遅刻の常習犯。常に縞パジャマを着用しており、月曜日から金曜日にかけて、黒・赤・青・緑・黄の縞パジャマを変えているため、部員からは簡易式カレンダーとも称されている。常にパジャマを着用している理由は未だ解明されていない。
これだけでも十分異質ではあるのだが、まだ徐の口と行ったところである。可児先輩は特に異質と呼ばれているのは、鴨川に座るカップルへの異常なほどの憎悪である。
例えばある時、可児先輩が鞄を背負い、スーパーの袋に大量の油揚げを入れて部室へやってきた。
「やぁ、松原くん。少し手伝ってはくれないか?」
「はぁ、何をですか?」
可児先輩は鞄から大きなざるを机の上に出し、
「これに油揚げを切って入れてくれ」
「油揚げ……?」
可児先輩はどさどさと油揚げを机の上にぶちまけた。
「これを切ってどうするんです」
「えいえい、つべこべ言わずにやるんだ」
私ははさみと油揚げを渡され、渋々油揚げを一センチ幅に切る作業に手をつけた。作業自体は簡単で時間もそれほどかからなかったが、私の手は油でべたべたになっていた。先輩は切り終わるや否や、ざるを抱えて部室を飛び出していってしまった。私はいったい何をしていたのだろう、という虚無感に包まれながら、手を洗いにトイレへと向かった。
その後、部室に戻り暫くネットで音楽を流しながら読書をしていたが、夕日がやや傾きかけてきたのを見て、私は部室を後にした。これ以上、ここにいても誰も来ないであろう。部室の鍵をかけて受付に返却しておいた。
帰路。私は目を疑った。ざるを持ちながら油揚げをカップルに浴びせる男。それは、鴨川にあった先輩の姿であった。
「そうです! 私が油揚げおじさんです!」
そう言って油揚げをカップルに向かって放り投げていく。その後ろを警察が追っている。狐の仮面にパジャマ姿の可児先輩は、いつも部室でくすぶっているとは思えない健脚で鴨川沿いを駆けて行った。あの調子なら警察に捕まることはあるまい。
しかし、私が手を油まみれにして行った作業があのようなものに使われていると知ると、自然と怒りのようなものが湧いてくる。私はいったい何をしていたのだろう。怒るのも面倒になって、そう虚無感に包まれるのだ。
暫くして、可児先輩は私の元に現れ、
「見たかね? あれが鴨川ワイルドだ。来週、講演会がある。君も是非きたまえ!」
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