第十七回

 私と花井さんは目を合わせると、自然と手を取ってゆっくりと体を起こした。二人とも目が点になっている。手を取り合ったまま、驚いた顔をして二人で座っている。辺りにはチラチラと小さな蝶が飛んでいた。

 「ワンッ」とマルが鳴いた。尻尾を振って、私と花井さんに向かって嬉しそうにしている。

 「よ、よかった……」

 私は花井さんに向かって言った。まだ気が動転して、しっかりと声が出ない。生きているのが不思議だ。

 「お、おおーい。大丈夫か?」

 振り向くと、今飛び込んだ線路の向こうに白ヘルメットが居る。小太りの奴だ。心配そうにモジモジとして、こっちを見ている。

 「い、今警察を呼んだからよう。ケガは無いか? 悪かったなぁ……。そ、そうだ、救急車も呼ぼうか?」

 呆れた奴だ。もとはと言えばお前がひったくりなんかするから、それを追いかけて我々はこんな目に遭ったんだ。

 「全くお前は──」と言いかけたところで、手を取り合っていた花井さんが私に抱きついた。

 花井さんは私の首に手を回してぎゅっと絞めると、

 「こわかった! ありがとう木原くん!」

 と私の耳元で大きな声で言った。

 抱き締められた私は非常に驚いた。そして花井さんはなんだかいい香りであった。

 私はどうしていいか分からない。内心あわあわしていると、やがて花井さんは私に回した腕を緩め、身を離した。そして離れていく時の花井さんは少女のような笑顔を私に向けて「えへへ」と笑った。

 「えへへ」

 「あはは」

 私も何だか笑った。今更ながら生きているのが実感されてきた。生きているんだ。助かったんだ。二人とも互いが互いにその実感が湧いてきたのが察せられて、顔を合わせていると妙な笑いがこみ上げてきた。

 「ん?」

 しかし花井さんは何かに気が付いて、私の胸元に視線を落とした。

 「あ!」

 私は思わず叫んだ。私の胸元から、手紙の封筒が出ている。そしてその封筒の角には「花井さんへ」と書かれている。

 「うわあ!」

 私は両手で胸元を隠しながら草むらに飛び込んだ。

 「ち、違うんです! 花井さん、これはその」

 私が慌てていると、

 「木原くん」

 と花井さんが言った。「木原くん、見せて」と。

 振り向くと、花井さんは笑っている。その笑顔の目元には、なんだか黄金のようにきらきらとしているものが見える。先程は少女の様に笑っていたのに、今の花井さんは化粧をした美しい女性のように見える。

 観念して私は立ち上った。

 「は、はい……」

 胸元のポケットに手を入れる。そうだ、私は今日これを渡すために家を出たのだ。花井さんへの大事な手紙である。

 辺りの霧はいつの間にか晴れてきた。今は青空が私の頭上に天高く広がっている。

 私は生唾を飲んだ。花井さんと対峙たいじしがら、胸ポケットには手を入れたままである。まるで胸から銃を取り出すガンマンだ。一度出したら、引っ込みはつかない。まさしく命が懸かっている。花井さんはその可愛い顔をこちらに向けて待っている。マルはというと蝶を追いかけて辺りを跳ね回っている。

 「おおーい」

 警察が来たよー、と白ヘルメットがこちらに向かって走ってきた。確かにパトカーのサイレンの音がしている。

 私は出しかけた手紙を胸ポケットの奥に押し込んだ。白ヘルメットに来られちゃ手紙は渡せない。私と花井さんの愛の仲人に、これから警察に御用になる白ヘルメットは頂けない。

 「て、手紙はあとで渡します」

 私は花井さんの目を見据みすえて、何とか言った。

 花井さんは少し不服そうな顔をしながらも、どこか笑みを含んだ表情で、

 「きっとよ」

 と言った。

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