第十六回

 ここからは何もかもがスローモーションに見えた。

 私は走った。花井さんは遠い。なんであんなに遠いんだ。足が重たい。霧で湿った草が足に絡まる様に、悪い夢の中でいくら駆けても手が届かないように、花井さんが遠くに感じる。

 間に合わない気がする。駆けても駆けても間に合わず、ぎりぎりのところで、花井さんは私の目の前で電車に跳ね飛ばされてしまう気がする。

 ──いつもそうだ、いつもそんなことが私の人生にはあった気がする。何か失敗したと、焦って取り戻そうとするのだけれど、それはもう、ぎりぎりのところで手に入らないのだ。「お前は遅れたのだ」と、天から知らされる様に。「機を失したのだ」と、天から罰を受ける様に。

 私の視界は狭まった。まるで自分の体の中からカメラを通して見るように、自分の振る手が視界の隅に映り、吐く息が他人のもののように聞こえた。

 そんな中でも、私の耳には電車の近づく大きな音が聞こえていた。もう駄目な気がする。私と花井さんの間にある草が踊るように歪み伸びて、決して辿り着けないように永遠に私から花井さんを遠ざけているように思えた。

 私は諦めかけた。しかしその時、マルが一気に駆け出した。

 マルは凄かった。グングンと、弾丸のように風のように花井さんに向かって駆けていった。

 これなら間に合う、間に合いそうだ、行け、マル。走れ、間に合え。

 「うわあああー!」

 マルは叫びながら花井さんに向かって飛び込んだ。体当りして花井さんを線路から突き飛ばすつもりだ。

 行け! マル!

 「うわあああー!」

 ──スカッと、次の瞬間、マルは花井さんの体を通り過ぎた。あいつは幽霊だったのだ。

 花井さんを通り越した先の草むらに着地すると、マルは「あ、アレ?」と自分の体を見回した。

 「こ、この役立たずがああぁぁぁーーー!」

 私は駆けた。足が重いなんて知るか、草が絡まるなんて知るか、全部引き千切ってやればいい。花井さんを助けるんだ、必ず助けるんだ、彼女に辿り着くんだ。もう間に合わないかもしれないなんて、悪い夢を見るな。走るんだ!

 「うおおおおー!」

 私は花井さんに飛び込んだ。周りの音は消えた。

 飛び込む私と、座る花井さんに、霧の中から橙色の二つの丸い照明を光らせて電車が現れた。花井さんと私がその照明に明るく照らされた。

 ……電車はけたたましい音を立てて、背後を通り過ぎて行った。私は草むらに倒れ込んでいた。

 目を開けると、私の体の下に、花井さんが居た。

 花井さんもゆっくりと目を開けた。花井さんの頬には少し汚れも付いて、髪には千切れた草が付いていた。

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