第十二回
「もう大丈夫」
腕の毛の濃いメガネを掛けた獣医がそう言うと、子犬は深緑色の診察台の上でまた元気にワンッと鳴いた。しっぽをピコピコと振って、嬉しそうに私や花井さんを見ている。マルは診察台の下で子犬を見上げている。
「大事をとって今日はうちで一晩預かろう。君、この子達に手続きを」
獣医はそう言うと、ちょうど診察室の前の廊下を通りかかった別の女性スタッフに声を掛けた。
受付で必要な書類に記入して礼をすると、私と花井さんとマルはまた外の通りへと出た。
「大したことなくて良かったね」
花井さんが私に話しかける。
「ええ本当に」
私がそう答える。
私と花井さんの前にマルが歩いていて、尻尾を振っている。
私は前を見た。通りが真っ直ぐに続いている。花井さんもただ私の横を歩いている。それで二人は何だか特に言うことも無くなった。
私は二人揃って急に何も言うことが無くなったのを気まずく思った。
花井さんと久し振りに出会ってから、子犬を心配するマルに付いて行き、慌ただしい中で子犬を病院まで送り届けるという目的があった。
それが今一段落ついて、病院の外に出たら、急に言うことが無くなった。変なものだ。
向こうも気まずく思っているかもしれない。花井さんのほうをちらと見ると、花井さんも何だか自分と似たような心持ちの表情を浮かべて前を向いて歩いている。
私は話しかけようと思った。けれどここで私が無理に話し出せば、それは今続いている沈黙の調子を不自然に破る感じになり(今互いに何か気まずい感じがしていましたね、それを打破する為に私は無理に話し出してみましたよ)という認識を、強制的に花井さんに言わずもがな自覚させるようで、そう思い至った瞬間私はためらってしまい、口の中にある言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
しかしそれは考え過ぎというもので、自分から話し出した方がよっぽどましだとも思ったが、考えすぎてはよく機を失う私は、結局何も言うことが出来ず、また花井さんの顔を横目でちらりと見たあとは、とぼとぼと再び前を向いて歩くしか無かった。
「あっ」
とそんな時、花井さんが前を向いたまま立ち止まって言った。
私も前を向くと、辻の通りに歩いている婆さんが、スクーターに乗った白ヘルメットの男にひったくられ、転んでいるところだった。
スクーターは辻の横に走り去った。
花井さんはすぐに飛び出した。
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