第十回

 フーッ、と花井さんのお婆さんは水タバコの煙を大きく吹き出した。私のほうをちらりと見て、

「あんたのお母さんは気の毒なことだったね。気をしっかりお持ち。見たところあんたは背はちょっと低いけど、骨もしっかりして体格の良い立派な男だ。その立派な体格に恥じないように、天国のお母さんを心配させないよう、気をしっかり持って生きておいき」

「は、はあ……」

 花井さんのお婆さんはカウンターに置かれたグラスを手に取ると、白いクロスで拭きだした。

「ところであんた、うちの咲のことはどう思っているんだい。好きなのかい?」

「な!?」

 私は思わず言葉に詰まってしまった。慌てて花井さんのほうを見た。見ると彼女は顔を赤らめて、困った様な、とでもいった表情で私を見ていた。

 しかし花井さんはすぐに体勢をお婆さんの方へ向き直すと、

「ちょっと、おばあちゃん!」

 と言った。お婆さんは構わずに続ける。

「好きなら好きって言っときな。いいかい、人生は一度。今日という日も一度。そしていま目の前にいる可愛い子は、世界にたった一人だけ!」

 そう言うと花井さんのお婆さんは、フーッと再び水タバコの煙を大きく吹き出した。

「……でもね、歳の若いあんたたちが自分の考えに自信を持てないってのも分かる。若い頃は恋愛にしろ夢にしろ将来自分の進むべき道にしろ、とにかく自分の考えに自信が無いものさ。いくら考えても、歳の若い自分の考えなんて、大したことないんじゃないかと思ってしまう。それかこの先歳を取れば、今よりもっといい考えが思いつくかも知れないとか……。そんなことを考えて、二の足ばかり踏んじまう。

 でもね、歳を取ると分かることがある。ああ、あの若い頃真っ直ぐに考えた自分の気持ちが、あの青臭い一生懸命考えた正義感や直感が、歳をとった今の自分に比べて、何よりも強く正しかったじゃないかと。結局はそこに、遠回りはしても戻って来るじゃないかと」

 花井さんのお婆さんは口の端を持ち上げてニヤリと笑って見せた。笑ったままその目をギラッとこちらに向けると、

「だからね、インスピレーションは大切だよ。ビビビッときたものに、あんたそう間違いはないよ」

 そう言って花井さんのほうを見た。花井さんはなにやら顔を赤らめている。

「だからやっぱり......」お婆さんはグラスを拭きながら、光が投げかけて来る天窓の方を見て言った。

「だからやっぱり、ハートだよ。良いハート。何をするにしたって、どんなことをするにしたって、物事を上手くいかせるには、困難を乗り越えるには、望んだものを最終的に手に入れてハッピーエンドを迎えるにはさ、やっぱり輝きを持った良いハート、それがあることが大切さ。

 あんたらが読む様な、漫画のカッコイイ主人公だってそうだろ? 嫌なハートの奴に、ハッピーエンドなんて起こりっこないのさ。

 人生で難しい、困難な険しい岩場を登る時、その手と足に踏ん張りの力を入れてくれるのは、その力が起こってくる源は、あんたが育ててきた、あんたの胸の奥の奥に有る、その良いハートからなのさ」

 お婆さんは楽しそうにまたタバコの先を咥えると、

「だって私が神様やエンジェルだったら、やっぱりその岩場を登ってくるやつの首根っこを掴んで引っ張り上げてやろうと思うのは、良いハートの子だものね」

 そう言ってカラカラ笑った。

 グラスを拭くお婆さんには、天窓から光が投げかけている。お婆さんにはそんなつもりはないだろうが、こちらから見るとお婆さんはなにやら一枚の宗教画の様にも見える。

 お婆さんは急に鋭い目つきになると、私を見て言った。

「でもねお前さん、念の為に言っておくけど、可愛い孫を守るためだから言うけど、あんたもし咲にふられても、ストーカーなんかになっちゃいけないよ。あんたね、恋と執着は違うものだよ」

「わ、私はそんなものにはなりません!」

 私は慌てて答えた。

 お婆さんはまた遠い目をして、何かを思い出す様な、どこか懐かしむような目をしながら、

「……どんなにこちらが惚れ込んでいても、実らぬ恋っていうものがあるのさ。

 世界でたった一人の人にふられた時は、うんと泣くがいいさ。世界中で今日も、どこかで男と女が泣いている。

 そして泣き切ったあとは、その人の幸せを心から願うがいいさ。その人はきっと他の人と結ばれるべきだったんだ。自分の運命の相手はその人ではなかったんだと。

 そしたらもうその後はいつまでもメソメソしてないで、勇気を出してね、すぐベッドから起き上がって、ご飯を食べて、次の『世界にたった一人だけの人』を探しに行くと良いさ」

 お婆さんの話は不思議だった。私と花井さんの交際を勧めているようでもあったし、またそうでないようでもあった。

「ねえ、咲」とお婆さんは最後に花井さんのほうを見てそう言った。花井さんは気まずそうに、視線を下に落とした。私は少し、妙な感じがした。


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