第九回
私は聞いてみた。
「マル、お前の言葉が分かる人間と分からない人間がいる様だが、それは一体どんな違いなんだ」
「さあ……」
マルは
「実はワタシにも、よく分からないんです。ワタシの言葉どころか、ワタシの姿も見えない人もいるようですし。しかしそうかと思えば、ワタシが
「へえ」
「それにワタシも物が持てたり持てなかったり、ワタシ自身、物を通り過ぎちまう時もあるようで……」
「なんだそりゃ、いい加減だなあ。つまりは自分でしっかりコントロールできないってことか」
「そうですねえ……」
マルはそう言いながら飲み干したグラスを見つめている。
グラスの内側には底に向かうに従って、溶けだしたアイスクリームの白く濁った波模様が輪っかになって段々と付いている。氷の上にはまだマルが手を付けていないバニラアイスが残って、溶けだしたアイスの上を発色の良い赤いチェリーが滑っている。氷の底に溜まったメロンソーダの人工的な緑色が鮮やかだ。
「まあそうなんでも自分の思い通りにはいかないということですね。人間のご主人だって、そう何でも自分の思い通りにはいかないでしょう? ましてやワタシは犬の幽霊ですからね。死んでるんですよ!」
「とんでもない話だなあ」
私はまいった、という感じで額に手を当てた。
くつくつと、花井さんが可笑しそうに笑いを
「そうだ。木原くんのお母さんは元気?」
花井さんが私に尋ねてきた。
「いや......、実は母は二年前に亡くなってしまいましてね」
「えっ!」
花井さんが驚いた表情をした。
「血液の病気でしてね。気付いた時にはもう手遅れだったようで。……あっと言う間のことでした」
「そう……」
花井さんは悲しげな顔をすると、しゅんとして下を向いてしまった。
高校生の頃まで、花井さんは度々私の母と家の門前で話した。というのも花井さんと私は友人、という程ではなかったが、花井さんは高校へ向かうために、朝、駅の途中にある私の家の前を通る必要があり、行き帰りとその道を繰り返し通っていると、いつしか同じ高校に通う私の存在に気付いてくれた。
最初のきっかけが何であったかは忘れたが、花井さんのほうから何か帰り道に挨拶でもしてくれたに違いない。というのも当時の私では、たとえ同じ学校や同じ帰り道を使うよしみであっても、一見して「美人」だと感じる女子に自分から気さくに話しかけることなどは、到底できなかったからである。──そんな気質は、今もって大分ある。
私は花井さんと話し始めた最初、だいぶ一生懸命に話したと思う。何とか花井さんに面白い、楽しいと思ってもらいたかった。
それが功を奏したのか、花井さんと行きや帰り道に一緒になると、よく二人で話すようになった。
私が嬉しかったのは、花井さんとだいぶ仲良くなれてきたぞ、と思い始めていたある日のことである。
放課後、花井さんは見当たらず、私は一人でもう駅のホームにまで来ていた。その日は夕焼けのやけに明るく眩しい日で、ホーム一帯は赤く染まっていた。ホームに立つ私の背後から
電車が来ると、私はいつも決まった車両に乗っていた。その日も駅のホームの同じ場所に立って、同じ車両に乗り込んだ。
私は乗り込むと、何かを感じて振り向いた。西日が車両に差して窓は全部白く光っていた。その中を、ホームのベルが鳴りドアが閉じかける中を、一人の制服を着た少女が走って入って来た。花井さんである。
私はその花井さんを見た時に、その光の中を走ってくる花井さんを見た時に、花井さんはまるでスローモーションになってしまったように見えた。
何とか間に合って乗り込んできた花井さんは、はあはあと息を切らしながら、吊り革に捕まる私の横に来て、
「木原君……。やっほー」
と言った。
空気の抜ける音をさせてドアが閉まると、高架上にある電車はゆっくりと動き出した。
私は流れて行く窓の外の、夕焼けに照らされた街を見た。街は全体に赤色と、それから中心の方には金色の様な色に染まっていた。
横を見ると、窓からの夕焼けに赤く照らされた花井さんが、薄っすらと額に汗をかいて、大きな目で私を見ていた。
私はその日、花井さんと楽しく話して帰った。
それからというもの、花井さんと話す機会は格段に増えた。
朝駅に向かう途中に花井さんと会えば、私と花井さんは必ず話して駅に向かった。そして花井さんは私と同じ車両に乗るようになった。それまでは花井さんは別の車両に乗っていたが、私に合わせて私と同じ車両を選んで乗るようになった。
そんななか行きや帰り、花井さんが私の家の前を通る時に、偶然私の母が家の前に出ている時は、花井さんと私の母は話すようになった。
女同士のことだから私はそこに余り参加しなかったけど、傍から見ても花井さんと母は一般的な社交の挨拶を越えて、本当に気が合うようだった。
私はそのうち、花井さんに対する恋心をはっきりと自覚するようになっていった。
しかし私は高校を卒業するまで、ついに花井さんにその気持ちを伝えることはなかった。
告白して、もしうまくいかなければ今の幸福な関係が壊れる、というのも弱気な私の言い訳の一つだった。
またいつも行き帰りを共にしている花井さんとの付き合いが急に無くなれば、母は何かを予測するだろうと思った。それは高校生の私にとっては、何とも恥ずかしいことのように思えた。
またそのようになった
私はそんな煮えきらないことをぐるぐると考えては、とうとう何も言わず終いだった。
そして花井さんと私はそれぞれ違う大学に行った。大学に進むと、花井さんは通学に駅を使う必要がなくなり、私と花井さんの交友はぱったりと無くなってしまった。
時々はその後も花井さんが家の前を通ることがあり、その時偶然母が出ていれば挨拶することもあった様だが、それも次第に無くなっていった。
「
あるとき母が、私にそう聞いてきた。
私は何故か慌てて、花井さんとは通学路と学校でだけの付き合いであったこと、これまでも二人で特別出掛けたことはないということを、何故か弁明らしく説明した。
「そう……」
と母は少し寂し気に言った。そしてそれ以上はもう何も聞いてこなかった。
……私はしょんぼりとしている目の前の花井さんを見た。
「まあそんなに気を落とさないでください。本当にあっという間のことで、長くは苦しみませんでしたから」
花井さんは鼻をすすると、
「ごめんね木原くん。本当は私がお悔やみを言ったり、慰めなくちゃいけないのに」
「気にしないでください」
そう言って私は笑顔を見せた。
「私の方こそ、花井さんに知らせるべきだったかも知れません。でもお互い大学に行ってからは、もう中々会うことが無かったもので……」
花井さんはうつむいている。
私は場の空気を変えようと、
「そうだマル、お前は死んだんだったな。それなら、天国ってやつを見たか?」
マルはきょとんとした顔をして、
「そうですね……。そんな所に、行ったと思います」
と答えた。
「へー、なら神を見たか? それともマルが見たのは犬の神かな」
私が言うとマルはまた前足を顎に当てて考えだした。
「うーん、神様ですか。居たような……居ないような。……でもやっぱり居たような」
「なんだそりゃ、はっきりしないなあ」
マルは眉間に
「でも良いところでしたよ! 暖かくて広くて」
マルはこちらを見るとパッとした顔でそう言った。
そうして前に向き直して自分のグラスを見ると、
「し、しまった! スプーンが使えないからアイスが食べられない!」
と言った。
ところで花井さんが吹き出した。「もー」と言いながら目の端に溜まった涙を指で拭った。
花井さんはテーブルの上にある紙ナプキンで鼻をかむと、えい、とマルのグラスを取って、マルの口にアイスを注ぎ込んでしまった。
「あんたたち、ちょっといいかい」
花井さんのお婆さんが話し掛けてきた。
私と花井さんとマルは一斉にお婆さんのほうを見た。残った氷ごとアイスを口に入れられたマルは、リスのようにほっぺたを丸く膨らましてボリボリと氷を噛んでいる。
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