第八回

 ……しばらくして私の前にアイスコーヒーが置かれた。

 ワイングラス型のカップに四角い大きな氷がごろごろと入れられて、カップの表面には全体に冷たい細かな水滴が付いている。

 小さな水滴の粒が重力に従って二つ、三つとくっつくと、あとは大きな塊となって勢いよく丸みを帯びたカップの表面を滑り落ちた。

 炭のように真っ黒なコーヒーに鼻を近付けると、よく冷えているのに焙煎されたコーヒー豆の良い香りがすっと立った。

 花井さんが勧めてくれたミルクピッチャーから牛乳を注ぐと、まるで暗い夜の中に空から白い雲が生まれるように牛乳が広がった。

 私はストローでそれを回して飲んだ。

 見ると花井さんにももうアイスミルクティーが出されている。私の横に居るマルにもメロンクリームソーダが出されている。花井さんは手を伸ばして、テーブルの上に乗せられたマルの前足を引っ張ったりしてちょっかいを出している。どうやら花井さんはマルの言葉が分かるらしい。マルはあたふたしている。

「美味しいかい」

 花井さんのお婆さんがカウンターから聞いてきた。

「ええとても」

 私がそう答えると、

「そうだ、木原君。カレー好き?」

 と花井さんが唐突に聞いてきた。

「うちのおばあちゃんのカレー、とっても美味しいんだよ。特製スパイスカレー。ここの喫茶店の名物なんだ」

 花井さんがそういうと、お婆さんがカウンターの向こうで嬉しそうに笑った。

 花井さんが続ける。

「ここに来るお客さんも、そのカレーが目当てで来る人が多いかな。よくお昼休みにサラリーマンの人やOLさんや近所の常連さんが来て、そのカレーとコーヒーを注文していくの。私も子供の頃から、そのカレー大好き」

さきももう作れるようになったかい」

 お婆さんがそう聞くと、

「うん、一応教わった通りにはやっているつもりなんだけどね……。言われた通りの材料とスパイスで家で作っているんだけど、なかなかおばあちゃんの味にはならないの。私のお母さんが作るもののほうが、まだちょっと近いみたい。でもやっぱり、おばあちゃんの作るカレーは特別。木原くん、おばあちゃんの作るカレーはすごいんだよ。出来たてのカレーからふわっと立ち昇る湯気には、なんとも言えないいくつものスパイスの香りがして、一口食べると、味の奥の深みにはなにか甘みのようなものがあるんだけど、でもやっぱり飲み込んだ後は口の中がしっかりとピリピリ辛くて、……まるでなにかの魔法がかかっているみたいな味」

 花井さんはストローをつまんで伏し目がちにミルクティーを飲むと、私の方に今度はその大きな目を向けて、

「ね、木原くんも良かったら今度食べに来てよ」

 とにこやかに言ってくれた。

 私はその時、にこやかに笑う花井さんのその瞳に、──窓からぼんやりとした光を受けて、ストローを摘みながら、きらきらとした大きな瞳をこちらに向ける花井さんに、

 ……ああ私はそれを何と評したらいいだろう。

 ──それは例えば何か私に期待しているような瞳、

 ──それは例えば何か彼女自身の未来に希望を見出しているような瞳、

 ──それは例えば何か私に単純に興味を持っているような、また単純に私を見るということが嬉しいような、そんなきらきらとした、大きく見開かれた瞳。

 とにかくそんな花井さんの瞳に私は一瞬見惚れて、何も言えなくなりそうになったのだが、それでもなんとか平生へいぜいを装って私は、

「ええ、是非来ます。カレーは好物です」

 とだけ何でもないようにすぐに答えた。

「あんたたち、付き合っているのかい」

 突然の花井さんのお婆さんの質問に私は驚いた。花井さんはゴホゴホと、飲みかけのミルクティーのストローから口を離して、下を向いてむせた。

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「ちょっとおばあちゃん! なに言ってるの、木原くんが困っているじゃない!」

「なんだいあんた達、付き合ってないのかい。つまらないねえ」

 花井さんとお婆さんは止まらずわあわあと話している。私は気まずくなって、アイスコーヒーを一口飲んだ。

 ふと横を見るとマルが、前足はテーブルに乗せたまま、その前足と前足の間にある、目の前のメロンクリームソーダのストローを口いっぱいに噛んで、ジュゴーッと音を立てて勢い良く飲んだ。ひどく御満悦ごまんえつである。

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