洞窟

「着いた! けど、これは……」


 森田は煙の発生源へと、身体を引きずりながら再び雑木林を抜け何とか辿り着いた。人に会えるという喜びに縋り、行き着いた場所は、山のふもとにポッカリと空いた洞穴ほらあなであった。


 原始の時代、こうした洞穴を住居にしていた痕跡は、地球にも残されている。雨風を凌げる天然の家屋は、どの世界でも利用されると考えて不思議はない。


 しかし、だ。


「匂うなぁ」


 こういった場所は、往々にして表じゃ堂々と生きていけない奴らの巣窟となっていることがある。立地的にも周囲に大きな街がなく、国家権力の目の届かない、悪行の温床とするにはもってこいではないか。


 森田は焚き火の始末後に目を見やる。

 未だ燻る薪の近くには、真新しい薪が打ち捨てられていた。その薪をよく見ると、一箇所だけ黒く焼け焦げた丸が付いていた。丸の中には何かしらの模様が描かれており、恐らく文字であろうと思われる。


「まぁ、芋判子って事はないわな」


 恐らくは焼印。


 使用用途は何だ? 


 まさかこの中に饅頭まんじゅう工場が建てられているということもないだろう。


 焼印があり、文字がある。ある程度の文明は進んでいそうだ。鉄を扱う文化があるとすれば、殺傷力の強い武器だってこの世界には存在している筈だ。


「Hiw mez bifo dwed?」


 不意に男の野太い声が聞こえる。森田は咄嗟に茂みへと身を隠す。


 見られたか?

 いや、角度的に洞窟の中からこちらは見えていないはず。


 平和的な第一村人発見とはなりそうにない以上、発見される訳にはいかなかった。


「Mi! Klooza bemd!!」


 続けて女性の声。言葉の内容は分からないが、泣き叫んでなにかを懇願しているような声音。


 女は喚くように何かを訴え続けているが、やがて鈍い音と女の絶叫がこだました。地面を引き摺るが聞こえ、悲鳴と共に気配が小さくなっていく。


 森田は慎重に入口に近づき、コッソリと中の様子を伺うが奥の方は暗くてよく見えない。二人は中に戻っていったらしい。赤い道標が点々と続いていた。


 耳を澄ませてみる。

 微かに、男たちの笑い声が聞こえて来る。気のせいだろうか、その声には下卑た含みさえ聞こえて来るようだ。


 森田は反射的に駆け出しそうになって、


『また死にたいのか?』


 足が竦んだ。

 下された死の宣告。拘置所の廊下を死へ一歩、また一歩と近づいていく恐怖。縄を首にかけられた冷たい感触。


 思い出すだけで叫び出したくなるほどの恐怖。必死に飲み込んでも溢れてくる絶望。


 気が触れてしまいそうだ。


 森田は、動くことが出来ない。


 立ち去りたい。こんなところからいち早く離れて、どこかにある街を探したい。金を稼ぐ手段を探して、宿を取って惰眠を貪りたい。


 男たちの笑い声がさらに大きくなる。それに加えて怒号も聞こえてくる。


 ああ、腹が減った。

 カレーが食べたい。事務所近くにあったカレー屋のビーフカレーが無性に食べたくて仕方がない。スパイスの効いたあの辛さを、ほぐれるほど煮込んだ牛肉をもう一度食べたかった。


 森田は立ち去る。一刻も早くここから去らなければならない。中で何が行われているかなんて、考えたくもなかった。


『見て見ぬふりをするだけじゃあないか』


 きっとこの中には家畜が居て、それに印をつけているだけなのだ。労働が過酷で、女性従業員が逃げ出しただけ、よくある光景だ。特筆すべきことなど、何一つない。


 絹を裂くような、か細い声が洞窟内に響く。


 何も、ないのだ。


 そう思い込もうと懸命な森田の脳裏に、彼女の言葉が蘇ってくる。


 修二くんは、いつまでも正義の味方でいてね。


「––––っ馬鹿野郎!!」


 森田は吐き捨てる。自分自身に、自分の身体に。


 ふざけんな、何だこの貧弱な思考は。森田修二はいつの間にこんな風になっちまった?


 誰かが助けを求めているかも知れない、それだけの理由で充分だったじゃあないか。森田修二はそんな男だったはずだ。それが徒労に終わろうが、罵声を浴びようが、そんなのは関係なかったはずだ。


 誰かが泣いているから、ただ助ける。

 それが俺の行動理念だったはずだろう?


 俺の何が変わっちまった?

 身体が、血潮が、脳みそが何から何まで違っちまったからか?

 森田修二の魂が、新晴聖に侵されてしまったとでも言うのか?


 逃げる? 

 俺が?

 あいつに想いを託された俺が、信念を曲げて尻尾を巻いて逃げ出すって?


 ふざけんな。

 いつまで俺に纏わりつくつもりだ、新晴聖!


 自身の中に聖の存在が根強く存在している事実に、はらわたが煮えくり返る思いだった。


「変わって、たまるかよ––––」


 臓器移植をきっかけに、性格が変わってしまったという話は現実に存在している。記憶転移と言われる現象で、原因は未だに不明である。


 食の好み、嗜好が変わった。物静かな性格が活発で活動的に変わった。はたまた、臓器の持ち主の夢を見た。たった一つの臓器を移植しただけでこれだけ変わる事例があるのだ。


 全身を入れ替わった彼が、果たしてこのまま元の彼のままでいられるのだろうか。心臓が、血液が、何より脳が、もう元の彼のものではないのである。


 精神にどれだけの影響があるのか、彼のアイデンティティは、魂はどれだけの影響を受けてしまうのか。


 いや、既に彼はもう。


「受け入れねぇ! 受け入れてやんねぇ!! テメェを、俺の大切なものを壊した憎いテメェを、絶対に受け入れたりしない!! 俺の行動は俺が決める! 俺の魂は、俺だけのモンだ! テメェなんかの影響でブレるほど、俺は、落ちぶれてなんかやんねぇからなぁぁぁ!!!」


 森田は絞り出すように叫ぶ。

 鼓舞するように、吹き飛ばすように、魂に刻みつけるように。


 聖の身体になってしまった事は、運命だと思って諦める。せめて奴の体に刻まれた罪を償うようにと、死さえ受け入れてみせた。


 感謝されこそはすれ、恩を仇で返されるいわれはない。


「やる、やる、やる、やる、やってやる。俺は誰だ? 森田修二だろう? 何を恐れることがある? 無謀も無鉄砲も、俺のための言葉だっただろうが。ここでやらなきゃ、誰がやる!?」


 そう呟いて、両頬をぱしんと張る。

 っし、と一息ついて洞穴を睨んだ。怪物が大きく口を開けたようなその暗闇は、何かを暗示するように黒く閉ざされていた。

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