第一章

死刑囚

 半年前、都内某刑務所。


「五九四番、出ろ」


 事務的な刑務官の一声に、男は大人しく従った。痩せぎすの身体を力なく起こし、よろよろと頼りない足取りで檻の外へと向かっていく。


 新晴聖にいはる ひじり、それがこの男の名前である。


 刑務官は思わず息を呑む。


 聖は大変美丈夫びじょうふであった。年齢は二十五であるが、童顔のためか十代後半と言われれば誰も疑わないであろう。女のように長く艶のある髪に、中性的な顔立ち、華奢な体躯の彼に劣情を催す者も多く、実際拘置所では何度か彼をめぐるトラブルも起きた。


 眩いほどの美貌。


 神の造りたもうた芸術品。


 誰もが口を揃えて彼を讃える。


 とても七十二人の尊い命を弄んだ男には見えない。


 男は刑務官に連れられ、静かに歩いている。足取りは淡々として、そこからは何の感情も窺い知ることはできない。


 やがて、ある部屋に到着する。


 教誨室きょうかいしつと書かれたその部屋に、新晴は迷いなく入った。


 室内には聖書を携えた牧師が一人、男が席に着くと聖典の一節を滔々とうとうと説いていく。


「何か言い残すことはないかね?」


 本を閉じ、牧師が男に問う。その声からは僅かながらの緊張がうかがえる。


 それは日本では二年ぶりのことである。相手は日本犯罪史上類を見ない凶悪犯。牧師も立ち会うのは初めてであるし、聖職に就く者ならば何かしら思うこともあるだろう。そのことを鑑みれば、牧師の努めて冷静な態度は合格点と言えるだろう。


 しばらくの沈黙と独特の緊張感が空間を制する。

 男は問いかけた牧師をじっと凝視する。痩せて落ち窪んだ眼窩がんかには、聖人のように澄んだ目が覗いている。


「俺は、やっていない」


 やがて、男が絞り出すように呟く。


 もう何度目だろうか。彼がそれを口にするのは。一貫して主張し続ける彼は、しかし控訴申請も出さず、刑は確定しているのだ。どう足掻いたとてその判定が覆ることはない。


 減刑も、情状酌量の余地もない。それだけの罪を犯したのだ。


 だというのに。


 彼は警察の取り調べ段階から一貫して自身の犯行を否認し続けた。物証も、アリバイも、目撃者も、全てが彼の犯行であると決定的に示しているにも関わらず。


 それは彼自身の証言からも裏付けられている。彼は犯行の詳細や、未発覚であった死体遺棄場所をつまびらかにした。犯人しか知り得ない情報、所謂いわゆる秘密の暴露である。当時の記録によれば、捜査に関して彼は非常に協力的だったと言う。


 しかし、自分は犯人ではないと頑として主張する。


 自分は新晴聖ではなく、森田修二もりた しゅうじであると。


 森田修二、三十三歳、男性。七十二の被害者のうちの最後の一人。探偵業を営んでいた彼は、新晴が起こした猟奇殺人事件の捜査協力者の一人であった。


「俺は森田だ。新晴は別にいるんだ」


 男はうわ言のようにそう繰り返す。何度も、何度も、何度も。

 言葉に既に力はなく、只々虚空に消えていく。


「時間だ」


 刑務官の無情な一声。

 男は抵抗するでもなく、椅子からよろよろと立ち上がり、刑務官に連れられまた別の部屋へと移っていく。


 物のない、ぽつねんとした部屋。唯一見えるのは、仕切りのカーテンだけ。


「法務大臣蔵本公造くらもと こうぞうめいにより、これより刑を執行する」


 刑務官は男に手錠をかけ、目隠しをさせる。それからカーテンを開け、隣の部屋へと男を誘導した。


 一本の縄が吊るされた部屋。その直下には踏み板。

 刑務官は速やかに男の首に縄をかけた。


 その様子を確認する三人の刑務官。彼らがボタンを押し、刑は執行されることとなる。


 男は今、いったい何を感じているのだろう。無抵抗な男の表情には怯えはなく、かと言って無表情な訳でもない。怒りにも悲しみにも、あるいは微笑んでいるようにも見えた。


「新晴を捕まえてくれ。奴はまだ生きている」


 新晴は呟く。

 死が喉元まで這い寄ってなお、繰り返す。それこそが真実であると、最期まで繰り返す。


「俺は、新晴聖じゃない」


 彼の声は遂に届くことはなく、終幕を告げる三つのボタンが無機質に押される。


 そして、地獄の蓋が開いた。

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