第一章
死刑囚
半年前、都内某刑務所。
「五九四番、出ろ」
事務的な刑務官の一声に、男は大人しく従った。痩せぎすの身体を力なく起こし、よろよろと頼りない足取りで檻の外へと向かっていく。
刑務官は思わず息を呑む。
聖は大変
眩いほどの美貌。
神の造りたもうた芸術品。
誰もが口を揃えて彼を讃える。
とても七十二人の尊い命を弄んだ男には見えない。
男は刑務官に連れられ、静かに歩いている。足取りは淡々として、そこからは何の感情も窺い知ることはできない。
やがて、ある部屋に到着する。
室内には聖書を携えた牧師が一人、男が席に着くと聖典の一節を
「何か言い残すことはないかね?」
本を閉じ、牧師が男に問う。その声からは僅かながらの緊張が
それは日本では二年ぶりのことである。相手は日本犯罪史上類を見ない凶悪犯。牧師も立ち会うのは初めてであるし、聖職に就く者ならば何かしら思うこともあるだろう。そのことを鑑みれば、牧師の努めて冷静な態度は合格点と言えるだろう。
しばらくの沈黙と独特の緊張感が空間を制する。
男は問いかけた牧師をじっと凝視する。痩せて落ち窪んだ
「俺は、やっていない」
やがて、男が絞り出すように呟く。
もう何度目だろうか。彼がそれを口にするのは。一貫して主張し続ける彼は、しかし控訴申請も出さず、刑は確定しているのだ。どう足掻いたとてその判定が覆ることはない。
減刑も、情状酌量の余地もない。それだけの罪を犯したのだ。
だというのに。
彼は警察の取り調べ段階から一貫して自身の犯行を否認し続けた。物証も、アリバイも、目撃者も、全てが彼の犯行であると決定的に示しているにも関わらず。
それは彼自身の証言からも裏付けられている。彼は犯行の詳細や、未発覚であった死体遺棄場所を
しかし、自分は犯人ではないと頑として主張する。
自分は新晴聖ではなく、
森田修二、三十三歳、男性。七十二の被害者のうちの最後の一人。探偵業を営んでいた彼は、新晴が起こした猟奇殺人事件の捜査協力者の一人であった。
「俺は森田だ。新晴は別にいるんだ」
男はうわ言のようにそう繰り返す。何度も、何度も、何度も。
言葉に既に力はなく、只々虚空に消えていく。
「時間だ」
刑務官の無情な一声。
男は抵抗するでもなく、椅子からよろよろと立ち上がり、刑務官に連れられまた別の部屋へと移っていく。
物のない、ぽつねんとした部屋。唯一見えるのは、仕切りのカーテンだけ。
「法務大臣
刑務官は男に手錠をかけ、目隠しをさせる。それからカーテンを開け、隣の部屋へと男を誘導した。
一本の縄が吊るされた部屋。その直下には踏み板。
刑務官は速やかに男の首に縄をかけた。
その様子を確認する三人の刑務官。彼らがボタンを押し、刑は執行されることとなる。
男は今、いったい何を感じているのだろう。無抵抗な男の表情には怯えはなく、かと言って無表情な訳でもない。怒りにも悲しみにも、
「新晴を捕まえてくれ。奴はまだ生きている」
新晴は呟く。
死が喉元まで這い寄ってなお、繰り返す。それこそが真実であると、最期まで繰り返す。
「俺は、新晴聖じゃない」
彼の声は遂に届くことはなく、終幕を告げる三つのボタンが無機質に押される。
そして、地獄の蓋が開いた。
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