後日談
細波は大海に寄せて・上
うららかな休日の昼下がり。
エアコンが効いた室内で、俺は情報収集という名のブラウジングを行っていた。
霧島一葉作品のグッズ予約開始のニュースが、各種メディアに掲載された。
『ペーシェント』が、海外の高級時計ブランドとコラボして作られたデザインの腕時計。
受注生産で、お値段はおよそ四百万円。
今日から、予約受付開始だという。
「貯金崩すか……」
俺が通帳を開くと、横に座っていた先生がぎょっとした。
「え、四百万円だよ? 君、普段はあんなに口をすっぱくして百円の価値や重みを説いているじゃないか」
「俺は先生のために働いてるし、先生のために貯金してるんです」
「ええ……」
先生は、怯えが滲み出た目を俺に向けている。
「砂洲本くんって金銭感覚おかしいよね」
先生には言われたくないんだが。
「君のような人種を見ていると、私も拝金主義すぎるグッズ展開には疑問が生じざるを得ないよ。今までグッズに物申したことはないが、これからはいくらかストップをかけた方がいいかもしれないな」
先生が少しでもファンのことを考えてくれるのなら大歓迎だが、ベクトルが素直に喜べなかった。
* *
先生がしがみついて止めてくるので、仕方なく腕時計を買うのはやめにした。
……今まで霧島一葉のグッズは余さずコンプリートしてきたのだが。
「砂洲本くんが破産したら私が養うから」と言われてしまっては、諦めるほかなかった。先生に養われるなんて御免だ。
そもそも、別に破産などしないのに。俺をなんだと思ってるんだ。
四百万円のグッズもそこそこの数予約されるほど、霧島一葉は絶好調だった。
先日発売された『オルターエゴ』の勢いは一向に収まらず、海外でもカルト的人気を得ていた。
「霧島一葉」の名は生ける伝説の域に達し、ファンは雨後の筍のようにわらわら増え、先鋭化していく。
一方、あれから特にストーカー被害はない。
先生は別に顔や身元が割れているわけじゃないし、そもそも家の外に出ないし。
俺が気をつけていれば、特に問題はなかった。
相変わらず部屋は手狭だったが、先生は、引っ越しの準備がめんどくさいとだだをこねる。
仕事の忙しさもあって、結局同じ家に住んでいた。
休日でも、先生と一緒にいると仕事気分が抜けない。
新進気鋭の作家の新刊を読んでいると、先生が寄ってくる。
俺は本を置いた。
「砂洲本くん、わたし新作書くから……」
「はい」
彼女はうつむく。
「わ、わたしのこと好き?」
変な条件付けがされてしまったのか、新作のたびに先生はこういう儀式を求めてくるようになった。
「好きですよ。別に小説を書かなくても言いますから」
「ほ、ほんと? 毎日言ってくれる?」
「……言いますよ。先生のこと大好きです」
「わたしのこと、世界で一番好き?」
「世界で一番好きです。先生以外の人はみんなどうでもいいです」
「わ、わたしのどこが好き?」
「……ひとりじゃ生きていけなさそうなところ。普段余裕があるふりをしてるくせにすぐ情緒がダメになるところ。めんどくさくてどうしようもないところ」
「わ、悪いところばっかりじゃない」
「実際そうなんだから仕方がないでしょう」
「そ、そうだけど……」
彼女が目を伏せると、その睫毛の長さがよく分かる。
「わたし、ダメだから……砂洲本くんがいないとダメだから」
「知ってますよ」
「うん……」
彼女の真紅の瞳がこちらに向けられる。
仕方がないので、俺はキスをした。
そのしなやかな輪郭に触れる。
「…………」
先生は全く離れようとしない。本当にしょうがない人だ。
やっと顔を離した彼女は、目を伏せたまま言う。
「わ、わたしも砂洲本くんのこと大好き……」
……本当にどうしようもない人だ。
先生はそそくさとパソコンに向かう。
「それで、新作はどんなものにするんですか?」
「ああ、『ファンタジー』の続編にするつもりだよ。シリーズ化が期待されてるんだろう?」
何事もなかったかのように、彼女はキーボードの上に指を走らせる。
「そうですね。先生の新たな代表作シリーズになること間違いなしですよ」
本当は『オルターエゴ』の続編の方が期待されているのだが、あれは易々と世に送り出して良い代物ではないだろう。
あんなものを乱発したら、いよいよ天と地がひっくり返りそうだ。
* *
相変わらず彼女は自堕落だし、おっかないし、目が離せない。
とはいえ、誘えばちょっとした散歩くらいになら着いてくるようになったし、子どもの手伝いくらいの家事はするようになった。
このまま先生が真人間になってくれればいいのだが……。
彼女には、長生きしてもらわないといけないのだから。
「俺、今度の盆休みは実家に帰りますから」
「ええ! わ、私のことはどうするんだ!」
「いい加減自活する術を身に着けてください。自分がいくつだと思ってるんですか」
「ね、年齢の話は関係ないだろう!」
「現実から目を背けないでください。数日くらいひとりで暮らせるでしょう」
「そんなご無体な! 私も着いていくからな!」
「つ、着いていくって……やめてくださいよ! 結婚するって思われたらどうするんですか!」
「そんなの些事じゃないか!」
「さ、些事!?」
何が楽しくて、こんな生活能力皆無な人間と結婚しなければならないんだ。
「俺が留守の間は、はねこの世話は頼みましたよ」
「そ、それはやるけど……」
就職してから、色々忙しくて一度も実家には帰っていなかった。
この機を逃せば、またしばらく帰省できないだろう。
先生には留守番してもらうことになるが、大の大人なんだ、何の問題もないはずだ。
それに、俺がいたら甘ったれたことを言うばかりだ。たまにはひとりにした方が、いいだろう。
俺には、先生を長生きさせる役目があるのだから。
* *
電車を何本か乗り継いで、実家に向かう。
俺が生まれ育ったのは、海沿いの街だった。
穏やかな海面を眺める。
先生を連れてきたら、喜んだだろうか。
久々に帰った実家は、懐かしさと停滞に満ちていた。
細部は変わっているのだろうが、概ね変化はない。
ただ、重ねた歳月は色濃く、部屋の柱はくたびれて、白い壁もいくらか褪せている。
俺の親は両方家にいた。
前に会ったときより、しわが深くなった気がするふたり。
「仕事の方はどうなの?」
再会の挨拶もそこそこに、母さんはそう訊いてくる。
「『オルターエゴ』の反響、知ってるだろ? 大忙しだよ」
そう言うと、彼女はため息をついた。
「あんた、子どもの頃から、霧島一葉の話しかしなくて、将来まともな職に就けるか心配だったけど、まさか霧島一葉の担当編集者になるなんてねえ。信仰心もそこまで行くと感心するわ」
「……うるさいな」
俺の両親は、霧島一葉に一切興味がなかった。最早、この国では珍しいタイプだ。
元々本を読まない方だし、俺が子どもの頃に霧島一葉のファンになってからの様々な姿を見て、変に恐れを抱いたらしい。
息子をおかしくした元凶とまで思っていて、先生のことを「人間を狂わせるカルト作家」「狂気の毒巣」と呼んでいる。
失礼な話だ。
霧島一葉はそんな得体が知れない存在ではないし、俺はおかしくされてもいない。今の今までずっと正常だ。
ともあれそんなわけで、俺の両親は霧島一葉に対して及び腰だった。
むしろ、俺の影響を受けて先生のファンになって然るべきなのに。
「あんた、そろそろ結婚とかしないの?」
「げ、げほ、げほっ」
帰省したら、その手の話を振られるであろうことは予想していたが。あまりにも突然過ぎた。
「そもそも彼女いるの?」
「……どうだっていいだろ」
「全く、霧島一葉の本と結婚するなんて言い出さないでね。あんただったら式まで挙げそうで怖いわ」
「はぁ!? そんなことするわけないだろ? 一体なんだと思ってるんだよ」
「何って……霧島一葉の頭のおかしな信者よ」
「ぐ……」
俺は苛立ちを抑える。
何を言っても焼け石に水だ。部屋に戻る。
あの親に、先生と付き合っていることを話したら、余計に俺を狂人扱いしてくることだろう。
霧島一葉のために生きることの何がいけないんだ。先生の作品はこの世でもっとも価値あるものなんだから。
大体二十五はまだまだ結婚を急かされるような歳じゃないだろう。気が早いったらありゃしない。
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