エピローグ ボトルメール


 まだ小学校低学年か、それくらいだった頃。

 休日、暇を持て余した俺は、近所の公園に遊びに出かけた。


 よく行く公園は海に面した立地で、風が潮の香りを運んでくる。


 生憎、友達や知り合いの姿は見えなかった。

 紺碧の凪いだ水面があるばかりである。


 帰ろうか迷ったが、何もせず周り右をするのも無益だ。


 ぶらぶらと公園の中を歩くと、ベンチに腰掛けて泣いている女の子がいた。

 しかも、見たことがない子だ。


 恐らく同い年くらいだろう。

 長めの黒髪と、小さな肩。

 なぜか靴を履いておらず、裸足だ。


 なんとなく、見て見ぬふりをする気が起きなかった。俺は、彼女の横に座った。


「どうしたの?」

 そう声を掛けると、女の子はごしごしと涙を拭う。


「……うるさい。ほっといてよ」

「なんで泣いてるのか気になったから」


 間近で、彼女の顔が見える。

 長い前髪から、赤くて綺麗な瞳が覗いている。線が細くて、色白。


「……おとうさんとけんかしたの」


 目に泣き腫らした跡があるが、かわいい子だな、と思った。それは見た目の話ではない。

 確かに造形も整っているが、なんというか、雰囲気が。妙にほっとけなくなるような、そんな感じがして。


「家にかえりたくない。おとうさん、いつもぶってくるの。おなかとか、見えないところを。わたしがだめだからって」

「……そうなんだ」


 この子が悲しんでいたり、泣いていたりするところは見たくないな、と思った。どうしてだか、そんな気分になっていた。


「だれもわたしのこと必要としてない……わたし、だめだめで、いいところひとつもないし……」

「そんなことないよ」


「どうしてそんなこと言えるの? わたしのこと、何も知らないくせに」

「たしかに、君のこと何も知らないけど」


 俺は、拙いながらもなんとか励ましの言葉を掛けた。

 彼女に笑って欲しい、と思った。少なくとも、泣き止んでくれればよかった。


 そして、自分が履いていたサンダルを脱いで、差し出した。

「これ、あげるよ。裸足だと、小石とか痛いだろ?」


「……君だって、同じでしょ? それあげて、どうするの?」

「いいよ、俺は。家近いし」


 俺が家まで帰るのに少し痛い思いをするより、彼女の白い足が尖った石や破片で傷つく方が痛ましい気がした。


「今は身の回りに誰も味方がいないって思うかもしれないけど、この世のどこかには君のために何かしたいって思う人が確実にいるんだ。これで誰も必要としてないなんて言うなよ?」


「…………」

 白く乾いた砂の上の黒いサンダルを、彼女はじっと見つめる。


「この世のどこか……じゃなくて、君が、君だけは、わたしの味方になってくれる?」

 女の子の細い声は、そう言った。


「……いいよ」

 それで少しでも彼女の力になるのなら、お安い御用だ、と思った。


「約束してくれる?」

「うん。約束するよ」


「ほんと? 絶対だよ?」

「うん」


 女の子は、やっと微笑みを見せてくれた。

 それはとてもかわいらしくて、やっぱり放っておけなくなるような表情だった。


「君の、名前は?」

「え? ああ、俺は、砂洲本健だよ」


「さすもと? ヘンな名前」

「……うるさいな」


「君は?」

 俺は、問いかける。

 彼女の名前を。


「わたしの、名前は――」




 * *




「砂洲本くん?」

 目を開けると、こちらを覗き込んでいる顔があった。


 艶やかな黒髪、白く整った顔立ち。赤く澄んだ瞳。

 見慣れた顔。


 夢を見ていたような気がする。何の夢だったかは思い出せないが。


「ふわあ……先生、なんですか?」

 また何かやらかしたのかと訝りながら身体を起こす。


「いや……その……」

 彼女は立ち上がると、キッチンの方に向かった。少しもしない内に、テーブルに普通の家庭料理が並べられる。


 白飯に味噌汁に、焼き魚、煮物。全て作りたてで、しっかり熱を帯びている。


「これ、作ったんだ。砂洲本くんに食べてほしくて……」

「せ、先生が作ったんですか!? これらを!?」


 戦々恐々としながら、一口食べる。

 おいしい。頭が混乱しそうなくらい普通においしかった。


 あの、ほっとけば何も食べない先生が……身の回りのことを何もしようとしない先生が……味音痴な先生が……。


「…………」

 まずい、感動を覚えている。

 先生を褒めたいとすら思っている。


 あんな、炊飯器を扱うことすらできなかった先生が、最寄りのスーパーすら知らなかった先生が……。


 およそ恋人に抱く感情じゃなかった。


 落ち着け、この女狐に惑わされてはいけない。料理くらい誰でもできるだろう。ただ普段がアレ過ぎただけなんだ。

 この人、やろうと思えばなんでもできるんじゃないか?


「おいしい?」

 先生が不安そうに覗きこんでくる。


「……まぁ、おいしいですよ」

「本当!?」

 彼女は表情を輝かせた。全く、疎ましい……。




 * *




 食事を終えると、先生は流しで皿を洗い始める。


 どうせ後片付けは俺に丸投げしてくるんだろうと思っていたら。ちゃんとやっている。


 ぐ……ほ、絆されるな……。必死に自分に言い聞かせる。

 皿洗いぐらいでなんだ……相手は二十五歳なんだぞ。それくらい当然だ。


 俺が自分と戦っていると、先生は皿洗いを終え、文鳥の鳥かごを開けた。餌箱に餌を注いでいく。


 いつの間にか餌やりや水換えは先生の仕事になっていた。

 かわいがっていると言うより、ただ単純に新しいおもちゃを面白がっていると言った方が適切だろう。


 先生は文鳥をつんつんとつつく。

「ふふ、はねこはかわいいなぁ」

 しかもいつの間にか名前までつけていた。


 人懐っこい文鳥は、すっかり先生にも懐いていた。調子のいい奴だ、と思う。


 そのまま先生を眺めていると、文鳥の世話を終えた彼女は、どこからか手紙の束を取り出した。


「ん?」

 見覚えのある封筒が、記憶の奥を刺激する。


 忘れもしないそれは、俺がこれまで先生に送り続けたファンレター、十年分だった。編集者になってからは、さすがに送るのをやめたが。


「……な、なんでそれを」

「編集長にもらったんだよ。君が私の担当編集者になったときにね。もっともこれまで一切手を付けていなかったが」


「そ、そんなの読まなくていいですよ……」

「いつもファンレターを読むよう言って来たのは、君だろう?」

 俺が書いたものを読めとは言ってない。な、なんで今更……。


「へえ、砂洲本くんって手紙だと殊勝なんだね」

 先生はにやにやしている。


「ぐ……」

 ファンレターを送ったこと自体は後悔していない。俺の自然な崇敬の発露だからだ。しかし、こんな風に扱われるのは御免被る。


「俺はいつでも殊勝ですよ」

「ふうん」

 やはり先生とは一度腹を割って話す必要がありそうだ。


「……たとえば、君が群青の大海にボトルメールを流したとしよう」

 ファンレターを折り目の通りに畳んで、彼女は丁寧に封筒に戻す。


「誰かに伝えたいメッセージを書き記して、ガラスの瓶に詰めて、コルクで封をして――だけど、それが誰かに届くと思うか? どうせ見当違いの漂流で障害に阻まれると思わないか?」


 自然の流れは強大で、人間が計り知れる領域を遥かに超えている。

 時間だってかかるだろうし、未開の島に漂流するかもしれない。


「私にとって、小説とはボトルメールだ」

「え?」

 先生の、作品が?


「矛盾していると思われるかもしれないが……私は、小説を書くことで、霧島一葉以外の人間を見てもらえるのではないかと思っていた」


 霧島一葉以外の人間。

 作家でも神様でもない、ほっとけば何もしない、本当にどうしようもないひとりの人間。


 「霧島一葉」の結晶とも言える小説で、それ以外を見てもらうなんて、手段としては迂遠極まる。

 むしろ、「霧島一葉」を余計に強大にするだけだ。

 まさに、矛盾。


 しかし、彼女はきっとそれ以外の手段を知らなかったから。


「そして、恐らく『パールグレー』は、それがもっとも現れたものだ」


 誰に届くか分からない。

 誰にも届かないかもしれない。


 それでも誰かに届くことを願って、ばら撒いたボトルメール。

 それが、先生の小説だったのか。


「まぁ、それを読んで実際に遠路はるばるやってくるような、酔狂な変わり者もいたわけだが」


「それは、すごく心が広くて菩薩のような人間なんでしょうね」

「……私はそうは思わないけど」

「俺はそう思いますよ」


「…………」

「…………」


 俺は、彼女の名前を呼んだ。

箱辺はこべ瑠璃子るりこ先生」


 それは、昔から知っている名前だった。


「ずっと小説を書き続けてくださいね。好きなので」

「……はいはい」

 先生は嘆息した。


 全く……人の心を惹きつけてやまない天才とは、本当に難儀な生きものだ。




――――――――――――――――――――――――

あとがき→https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330657505083488

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