15話 海食


「あなた、恋をしているでしょう」

 陽光が、窓際に座る女性の右半分を照らしている。


 紅茶のカップを傾けながら、彼女は言葉を発した。

 元々口数が少ないタイプだからか、この人の声を聞くたびに、不思議と背筋が伸びる気分になった。


 三年前。俺が就職したばかりの頃。

 学生時代から交際していた恋人が、家に遊びに来ていた。


 俺が恋をしている人間がいるとしたら、恋人である彼女に、だろう。


「いいえ、違う。あなた、恋をしているんだわ」

 カップが、テーブルの上に置かれる。彼女の瞳はずっと錆色の水面に向けられていた。


「あなたの心はそれに囚われていて、他のものなんて一切目に入らないのよ。しかも、一過性の熱病なんて域に留まらない。むしろあたしと付き合っていること自体が、異常みたいなもの」


「……ど、どうしたんだよ、急に」

 彼女のまなざしは動かない。紅茶の中に沈んでいったものを探しているようだった。


「あなたの心は、未来永劫それから解放されないわ。だってもう、手遅れだもの」

「手遅れ……?」

 全く思い当たる節がなかった。


 特段気になる相手などいないし、そもそも俺は、恋人がいながら二心を持つタイプでもない。

 彼女には誠実に接してきたつもりだ。


「だったら、言い切れる? 自分にとっての一番が何か」

「…………」


 俺にとっての、一番?

 そんなの――


「決まりきっているわ。気づいていないのはあなただけ」

 確かに、彼女でないことは明確だった。


 こうして、俺は恋人から別れを切り出された。


 それが、よくあるところの「仕事と私、どっちが大事なの!」だったことに気づいたのは、もう少し後だった。




 * *




「ふわああ……」

 懐かしい夢を見た気がする。


 眠気に霞んだままの脳でテレビを点け、ニュースを見て俺は仰天した。


 昨日『オルターエゴ』が発売された。

 霧島一葉の新作発売日の恒例として、全国の書店では開店前から長蛇の列ができ、店を開けるなり新刊コーナーや霧島一葉コーナーは野盗に荒らされたが如くもぬけの殻となる。


 それ自体は特に何の変哲もない出来事だが、いつもより度が増していることには薄々気づいていた。


 社会現象、である。


 『オルターエゴ』が社会に与えた影響は、予想を遥かに上回るものだった。


 千年に一度の名著と口々に謳われ、各地の書店や各通販サイトが異口同音に在庫切れを嘆き、中古本が法外な値段で取り引きされている。フリマサービスでは、百万円でも速攻で落札される有様。


 『オルターエゴ』はもちろん、霧島一葉の全作品が軒並み売れに売れ、天井の裏から床の下まで探す勢いで買い尽くされる。


 学校や会社を休んで読み耽り続ける人が続出し、社会の色んなところが滞っているという。

 どこかの電車の路線が動かないだとかで、大ニュースになっていた。


 担当編集者の俺にも、既に取材やメディアミックスの依頼、各所からのコンタクトが山ほど来ていた。


 あまりの人気ぶりに、読んだ者を必ず虜にする小説なんて呼ばれているらしい。

 一体どんな呪いの小説だ……。


 たった一日で、『オルターエゴ』が日本中を埋め尽くしていた。

 まさしく災害と呼ぶ他ないレベルで。


 しかも、熱狂的なファンが早速翻訳を行い、海外に出回り始めている。


 なんだこれは?

 いくらなんでも異常だ。常軌を逸している。


 俺は『パールグレー』を知っているから、『オルターエゴ』の衝撃がいくらか薄まったのかもしれない。


 しかし『パールグレー』を知らない者がいきなり『オルターエゴ』に触れてしまえば――

 その高濃度の才能、禍害の脳髄にじかに晒されてしまったら――


 その結果が、これだというのか?


 先生は作家というより魔女なのかもしれない。


 赤城高陽の新作は、全く話題になっていない。誰もが、先生の新作を読むのに忙しいからだ。

 どこからどう見ても、疑いの余地なく先生の圧勝だった。


 もしかして、とんでもないことが起きたんじゃ……。


「わーい! やったね!」

 先生は無邪気に喜んでいる。


「砂洲本くんはわたしのものなんだから」

 まぁ、彼女がうれしそうならいいのか……?


「俺は、一度も先生が敗れるなんて思いませんでしたよ」




 * *




「『オルターエゴ』、すごかったわ!」

 出社すると、いの一番に室生さんが俺に駆け寄ってくる。


「ねえ、霧島先生のサイン、もらってきてくれない!? お金なら払うから! 言い値でいいわ」


 昨日まではふつうだったのに、完全に霧島一葉に呑まれてしまっていた。


「というか、霧島先生に会わせて! ね、いいでしょ? 少しだけだから!」

 すごい勢いで詰め寄ってくる。今の彼女に先生を合わせるのは危険だろう。


 『オルターエゴ』の効力はすごかった。

 その後も、まともだった同業者が、何人も俺に迫っては霧島一葉に会わせるよう求めてくるようになったのだ。




 * *




 赤城高陽に呼び出されたため、一度訪れた喫茶店にまた向かう。

 彼女は既に着いており、オレンジペコを飲んでいた。


「ええ、わたくしの負けです」

 平然と微笑んで、そんなことを言う。


「霧島先生が文芸界に――ひいては社会に与えた影響は計り知れません。今回だってそう。何人の人生が、『オルターエゴ』で決定づけられたでしょう?」


 俺の人生が『パールグレー』で決定づけられたように。

 『オルターエゴ』はさらに多くの人生に影響を与える一冊だろう。


「わたくし、天才とは世界を作り替え得る存在だと思っているんです」

 紅茶を口元に運んでから、彼女は話す。


「道理にも何にも縛られず、ただ己の望むがままに周囲を塗り替えていく。ともすれば傲慢で、無責任なほどに。まるで現象のようですね」

 先生を見ていると、確かにそうだと感じる。


「彼女は他人の人生を簡単に変えられます。そうでしょう?」

 そして、先生自身はそれに何の責任も負わないことも。


 世界なんてものは天才の掌中なのだ。

 その命運すら、いとも容易く変えられる。


「さて、わたくしが敗北したときどうするか、霧島先生にお任せするという話でしたね」

「……そうでしたね」


「霧島先生は、なんと仰っていました?」

「それが……」


 先生は何も求めないと言った。

 何もしなくていい。

 端から関わらない。


 不干渉。

 先生が他人と接する際の大原則だった。


「……そうですか」

 赤城高陽は静かに紅茶を口にする。


「砂洲本さん。あなたが霧島一葉ファンの中でも有名な限界オタクだということは存じ上げております」


 限界オタク?

 違う。俺はそんな怪しげな存在じゃない。


「そんなトップオタクが、まさか霧島一葉の担当編集者と同一人物だったなんて」

 赤城高陽はおかしそうに笑う。


 ファンアカウントでは仕事の話は一切出していない。

 社会人として当然のことだからだ。


「そんな狂人が、霧島先生以外の人間に見向きしないのは当然でしたね」

 俺は狂人じゃない。単なる真っ当なファンなのに。


「赤城高陽さん、あなたは以前、先生が敗れるところを見たいと言いましたけど……これで分かったでしょう? あの人に勝つのは誰にとっても不可能ですよ」


「ええ。今回の作品は素晴らしかったわ。悔しいくらいに」

 彼女はカップを置いた。


「やはり霧島先生は天才だわ。神の頂に手が届くほどの。あんなに素晴らしい方は他にいない」

 かすかに顔を赤らめながら、彼女は至極当たり前のことを言う。


「分かっています。霧島先生は、わたくし程度の作家のことなんて歯牙にもかけていないし、眼中にもないって」

 死を願うくらいには歯牙にかけていたが……。


「でも、これで先生の中にわたくしの存在を深く刻み込めましたよね? わたくしのことを、忘れられなくなりましたよね?」


 赤城高陽の頬が上気する。恋に焦がれる少女のように紅潮する。

 それはテレビでも、直接対面していても、一度も見たことがない表情。


「この世でもっとも愛する先生に、必ず近づいてみせます。どんな手段を使ってでも。そのために作家になったんですから」

 これまで色々理由を並べていたが、それこそが彼女の真の目的だったらしい。


 なんて傍迷惑なんだ……。

 それで先生の情緒を振り回さないで欲しい。


 ましてや、世界そのものを。


 今後も、赤城高陽は要注意人物になりそうだった。

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