14話 烏羽玉の目覚め


「お風呂、借りるからな」

 先生は迷いなく浴室に向かって行った。


 俺は鳥かごの水を取り替える。

 文鳥はいつも通りのつぶらな瞳でこちらを見る。いきなりの闖入者にも、何も感じていないようだ。のんきなものである。豆苗があればなんだか幸せそうだし。


 洗い物を終わらせた頃に、先生は風呂から上がってきた。

 なんとも烏の行水だ。首にタオルを掛けて、湿った髪を拭いている。


 ソファの横に座ったとき、彼女から俺のシャンプーの匂いがした。自分の分は持って来なかったのか……。

 そんな考えをよそに、先生はテレビを点ける。


 ちょうど霧島一葉原作のドラマがやっていた。

 先生の作品を上回るものなんて存在するはずがないので、俺はあまりこういったものには興味がない。DVD等は全部集めているが。


 チャンネルを切り替えるほどでもないのだが、彼女はすぐにリモコンでザッピングした。

 様々な放送局を巡った後、動物ドキュメンタリー番組に落ち着く。


 テレビ一面に映し出されたサバンナを見ながら、俺は、先生はとことん自分の作品のメディアミックスを見たくないんだな、と思った。


 原作者へのインタビューではそれらしい感謝等を書き連ねていたというのに。まぁ、ああいうのは霧島一葉として述べたものなんだろうな。


 テレビではひっきりなしに霧島一葉に関連するものが出てくるから、完全に避けるのは骨が折れそうだ。


 霧島一葉原作のコンテンツは目白押しで、ニュースでは霧島一葉の話題が尽きず、バラエティでは芸能人が好きなものとして霧島一葉作品を挙げる。


 そういえば先輩の家のテレビは、いつも古い映画かドラマが繰り返し流れていた。霧島一葉が微塵も介在しない世界だ。


 街中も、テレビといった各種メディアも、インターネット上でも、霧島一葉は増殖し無限に広がっていく。

 彼女の影響力は恐ろしいものになっている。


 最早霧島一葉を遮断して生きることなどできない。


 霧島一葉を避けようとする先生が、あの霧島一葉コレクションルームで寝起きしていいのだろうか?

 俺の異常性の方が前面に出ているから、かき消されて気にならない、とでも言いそうだ。


 退屈そうにリモコンを置いた彼女は、ふと鳥かごに目を留める。


「鳥を飼っていたとは知らなかった」

 そういえば言ってなかったな。別に隠していたわけではないが、わざわざ話すことでもないだろう。


「そんな殊勝な趣味の持ち主には到底見えないが」

「……いいじゃないですか、放っておいてくださいよ」

 とはいえ、先生は文鳥に興味津々のようだ。


「撫でてみますか?」

「いいのか?」

「文鳥は人懐っこいから大丈夫ですよ」

 鳥かごを開けて文鳥を手渡すと、先生はおっかなびっくり手に乗せている。


「小さいんだな」

 そっと人差し指を動かして、文鳥の頬を撫でている。


「この子、名前は?」

「ありませんよ」

「……つけないのか?」


「『文鳥』で事足りるじゃないですか」

 口ではもっともらしく言うが、単に名前が思いつかなかったのである。


 名前を付けていないことに気付いたのは雛から成鳥に変わり、世話にも慣れて来た頃だ。

 そのときにふと、気づいたのだ。


 とはいえ、既に「文鳥」と呼び続けて来たから、今更ぴーちゃん等と呼ぶのは、あまりにもとってつけた感じがする。


 作品に付けた仮題がそのまま通ってしまうように、文鳥は「文鳥」が呼び名になってしまった。


「人間を人間って呼ぶようなものじゃないか」

「いいじゃないですか、オリジナリティがあって」


「そうか?」

 明らかに同意されていない目で見られた。

「……全く、文鳥に誰を重ねているんだろうね」


 文鳥を籠に戻すと、先生はシンクまで手を洗いに行く。

 潔癖症だ。しかし、さすがに文鳥を除菌するという暴挙には出なかったらしい。


 そういや潔癖症のくせに、よく俺の家に来ようなんて思ったな。


「先生、転出届とか転居届とか、郵便の転送届とか出したんですか?」

「なにそれ?」

「…………」

 本当にこの人は……。




 * *




 細々とした手続きは、仕方なく俺がほとんど肩代わりした。

 先生は俺の家に居つき、出ていく素振りすら見せない。


 幸か不幸か、一緒に暮らすようになって先生の情緒は落ち着いてきた。

 外出していても、電話が掛かってくる頻度は十分の一になったし。


 にしても、先生が引っ越すとなると、区の税収は大きく変わるんだろうな……。高額納税者が公示されていたら、必ずランクインするであろう人だし。

 元いた区の行政は、だいぶ苦しくなるだろう。

 いちいち影響度が大きい人だ。


 先生と暮らすようになっても、概ね予想通りのことしか起きなかった。


 やっぱり先生はぐうたらで、身の回りのことを何もしようとしないので、俺が世話を焼くしかなかった。

 とはいえ、いつもは放縦な時間に寝ている先生は、俺が起きる時間には起き出し、俺が作った朝食を食べるようになった。


 今日の朝のニュースも、霧島一葉のトピックが取り上げられていた。


 なんでも、中部地方に霧島一葉の著作のみを千冊貯蔵した私設図書館が建てられたらしい。


 霧島一葉のファンが、完全なる厚意で私財をなげうって作り、盛況だという。

 ファン同士の交流の場としても使われているのだ。


 面白そうだし今度行ってみようかな……。

 俺がそう思っていると、横で食パンをくわえていた先生は嘆息した。

「はぁ。頭がおかしいんじゃないか?」


「そ、そんなこと言わないでくださいよ。先生の本は、どこの図書館でも予約でいっぱいで、なかなか借りられないんですから」


 ニュースには、「霧島一葉図書館」の空っぽになった本棚の様子が映し出されていた。

 初日はファンや近隣住民が一斉に駆けつけ、全ての本が貸し出されたのだ。


「編集者の言葉とは思えないな。図書館なんて人気が出ても一銭の得にもならないのに。本屋で買えばいいだろう? なんだったら電子書籍だっていい」


「俺は編集者である前に先生のファンですから」

「ふうん」

 彼女は砂を噛むような顔でトーストをかじる。


 間口が広がれば、先生のファンだって増えやすくなる。コミュニティはファンの熱意を強化する。いいことづくめじゃないか。


「そういえば完成したよ、新作が」

「えっ本当ですか!」


「ああ、つい昨晩な」

 先生が渡してきたのは、そこそこの厚みがある紙。

 既に印刷していたらしい。


 先生の最新作は『オルターエゴ』と題されていた。

 赤城高陽に抗する一冊。


 ページをめくるにつれ、俺は戦慄する。

 な、なんだこれは……?


 ショッキングでセンセーショナルな内容。社会のタブーに深く切り込んだ怒涛の展開。

 それなのに絶妙なバランス感覚で読みづらくならず、エンターテインメントとして抜群の面白さに仕上げている。


 小説としてはそんな話だったが、それだけでは収まらない異様な読書体験があった。


 読み進めていくごとに、脳がぐわんぐわんと揺れていく。

 白い紙に浮かぶ明朝体が、多彩な像を結んで幾何学を描き出す。


 これはおかしい。

 ただの小説じゃない。


 内的放出の充填。全神経が目の前の小説に集中し研ぎ澄まされていく。


 家中の水道が壊れたように噴き出していた。

 空間が引き延ばされた後に、圧縮されていく。


 太陽光が息吹いて、呼吸と共に意識を絞り出される。

 時間は遠く置き忘れ、消えていく。


 これは誰の世界だ?


 しかし俺は決して冷静さを欠いているわけではなかった。


 紙上の幾何学模様が、やがて瑠璃色に輝き出す。

 この物語は声を発していた。不可侵聖域への入り口にして架け橋だった。


 触れている紙が身体の一部になっていく。己の自我が封じ込められている。精神が肉体から切り離され、内的世界に閉じ込められる。


 ああ、初めからそこにいたのだと思った。

 この物語の内側に真の自分が存在している。


 これこそが元来の世界の姿だった。


 最後のページまで読み終えた後でも、心臓が早鐘を打っていた。


 正気に戻ってもなお、肉体ごと精神をどこかに持って行かれる感覚が消えない。


 こんな感覚は初めてだ。

 一度読んだら忘れることなどできない。読む前の自分とは明確に異なっている。


 今までの霧島一葉作品とも一線を画する、怪作。

 十三年間彼女の作品を読んできたが、まだ新境地があったのか。


「砂洲本くん、どうだった?」

 先生がこちらの顔を覗き込んでいた。


「あ、ああ、その……」

 思わず口ごもってしまう。


 面白い? すごい?

 どんな言葉も相応しくない。


 明確に、俺の身体の内部を剥ぎ取って、すげ替えてしまう感覚。

 最早これ無しでは肉体を構成できないという感覚。


「えっと、面白い……ですよ」

「なんだ? その要領を得ない反応は。もっと他に何かないのか?」


 彼女の、沸騰する血と同じ色の瞳はこちらに向けられていた。

「君のために書いたんだから」


 もしかして危険な作品が生まれてしまったのでは……。


 やっぱり俺はこの人から離れられそうになかった。

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