13話 来訪
数日後。
一日の仕事を終え、自宅でのびのびしていると、ぴんぽーんとチャイムが鳴らされた。
こんな時間に誰だ? 特に予定があるわけでも、通販を頼んでいたわけでもない。
不審に思ってドアスコープを覗くと、見慣れた人物の姿があった。
「先生?」
鴉の濡れ羽色の髪に、柳腰の細い体躯。犀利さを伴った美しい女性。
俺は扉を開けた。
「珍しいですね、先生が出歩くなんて」
「まぁ……」
彼女はどこかよそよそしい態度で、中に入ってくる。
「どうしたんですか?」
「……今日からここに住むから」
「え!?」
耳を疑った。
先生が住む?
ここに?
今日から?
「だって、砂洲本くん、一緒に暮らしてくれるって言ったし……」
「じ、事前に相談くらいしてくださいよ。いきなり今日来るなんて言われても……」
「さ、砂洲本くんにやっぱり無理って言われたら耐えられないし……」
「…………」
本当にこの人は……。
客人を招き入れる用意すら整っていない。
ましてや、一緒に暮らすなんて。
「前の家は引き払った。もうないから」
「ええ……」
あのタワマンを? 分譲なのに?
絶句する俺をよそに、さらにチャイムが鳴る。見ると引越し業者だった。
「…………」
業者が段ボールを次々と家に運び込むのを、俺は黙って見ている他なかった。
ど、どうすればいいんだ、これは……。
先生の荷物は少なく――家電類などは持って来なかったのだろう――とはいえ、十畳の部屋は同居に不向きにも程があった。
俺はこめかみを抑える。
事こうなってしまっては仕方がない。
「はぁ……分かりましたよ」
この家が二人暮らしには狭すぎるという問題はどうにもならないが。
「どこにでも家を買ってあげると言っただろう? 好きなところを選ぶといい」
「それをやったら、俺は人として終わりますから。せめて費用は等分ですよ」
さすがにその一線は越えられない。
「先生、よく俺の家が分かりましたね」
これまで招いたことはないのに。
そう訊くと、彼女は黙って目を逸らした。
ん? なんだ? この不審な様子は。
……深く掘り下げると面倒そうだ。やめておこう。
「先生はもう夕食摂ったんですか?」
「ううん」
「…………」
な、なんでそんなさも当たり前のような態度なんだ?
「……じゃあ、何か作りますよ」
どこかの誰かのように冷蔵庫が空というわけではないし、何も作れないということはないだろう。
家にあるものを集めたら、うどんができた。凝ったものではないが、急ごしらえとしてはそれなりに上出来だろう。
先生はうどんをすする。
「おいしいね」
「そうでしょう。先生、ちゃんと毎食食べないとダメですからね」
「……君はときにお母さんだな」
しまった、先生にはついついお節介を焼いてしまう。しかし、彼女には当たり前のことも一々念押ししておかないといけない気がするんだよな……。
食事を終えた先生は、リビングの本棚に目を留める。
「いくらなんでも本、多過ぎるだろう。捨てたら?」
「なんてこと言うんです、滅相もない」
「『クレービング』とか面白くないだろう?」
「先生の本じゃないですか」
あんな名作を面白くないと一蹴できるなんて、さすがいいご身分だ。
「まぁ、捨てられない本の重さが人生の重さですからね」
「…………」
なぜか呆れた目を向けられた。
「君の哲学にはついていけないよ」
一度読めばそれで充分じゃないか、と先生は言う。
無論そんなことはない。特に――本棚の一番目立つところにぎゅうぎゅう並べられた、霧島一葉の著書全五十三冊と、先生の作品が掲載された雑誌全て。何度読んでも新たな魅力が発見できる。
さて、この家のどこを先生の居住スペースとして定めようか。
俺の生活スペースは、このダイニングとリビングで完結していた。
リビングのソファベッドで寝てるし。
「1LDKなので、一応洋間がありますけど……」
「だったら、そこでいいじゃないか。君はこのリビングで寝てるようだし」
「まぁ、それはそうなんですけど……じゃあ、使いますか?」
俺は、奥の洋室に通じるドアを開けた。
霧島一葉の作品や関連アイテム・グッズが所狭しに押し込められた部屋。改装版含めて全ての書籍を当然網羅している。十三年分の歴史は、十畳の部屋に収まりきっていなかった。
正面にある鍵付きショーケースの一番目立つところに、先日もらった『パールグレー』の直筆原稿が飾ってある。
「う、うわ……」
部屋の中を見た先生はドン引きしていた。この世でこの人にだけは引かれたくないんだが。
「こんなの……ストーカーじゃないか」
「せ、先生に言われたくないですよ! 俺の家、どうやって知ったんですか」
「いや、君……私の全作をリビングに揃えているのに、どうしてさらにワンセットあるんだ?」
「読書用と保管用を用意するのは当然です。先生の本は好きに読みたいけど、綺麗な状態のものも残しておきたいじゃないですか」
「保管方法が念入りすぎて怖い……並べ方も几帳面すぎて偏執的……猟奇殺人鬼の部屋みたい……」
「はぁ!? バカにしないでください!」
失礼にも程がある。
「これは……確か、私の定額会員制サイトの会員向けグッズ……加入していたのか」
もちろん、月額一万円の最高プランに加入している。
「え……」
先生はなおも引いていた。
「き、君は運営側の人間だろ? 入る必要ないじゃないか」
「毎月霧島一葉の限定短編や作品にまつわるQ&Aが読めるんですよ? 入らないわけないじゃないですか」
「でも、その短編だって事前に全て君が目を通しているじゃないか。Q&Aだって、直接いくらでも訊けるし」
「仕事とプライベートは別ですよ」
「ええ……」
人間、働き始めたからって生き方がそうそう変わるもんじゃない。
「先生の作品はこの世でもっとも価値あるものなんです。全部蒐集するのは当たり前じゃないですか。言ったでしょう? 俺は先生を愛しているんですから」
「ひ……」
当たり前のことを言っただけなのに、彼女は息を呑んだ。異常者を見る目つきを俺に向けている。
「わ、私を剥製にでもしてこのコレクションルームに飾って、霧島一葉コレクションを真に完成させようなんて思ってないだろうね?」
「どんな発想ですか……」
俺は異常者じゃない。
さゆるちゃんや糾村のような人たちと一緒にしないでくれ。先生を真に愛しているだけだ。
「き、君、他に趣味とかはないのか?」
「先生の作品に勝るものなんて、存在しませんから」
ろくに趣味を持っていない先生に言われたくない。
そもそも先生の方からこの家に来たというのに。
「分かりました。そこまで俺の趣味に文句があるんだったら、別れますか?」
「え、そ、それは……」
「そんなに俺を異常者扱いしたいんだったら、すればいいじゃないですか」
俺にだって不貞腐れるときはあるのだ。
先生はうつむいた。
「や、やだ……別れたくない……」
「別れたくないなら、別れたくないなりの態度があるでしょう」
「…………」
彼女は唇を噛む。
「さ、砂洲本くんは異常者じゃ……ない」
意地が悪かったかとも思ったが、先生をバカにされることだけは黙っていられない。
気を取り直して、彼女はこの洋室で寝ることになった。
他にスペースはないし。
「……君はいいのか? こんな怨念すら感じるような部屋に人を住まわせるなんて」
「コレクションに傷をつけたり散らかしたりしなければ、大丈夫ですよ」
確かにあまりいじり回されたくない部屋だが、この霧島一葉だらけの空間に先生を入れておくのは自然な感じがするし。
常時湿度と温度を管理しているから、過ごしやすくはあるだろう。
少し配置を変えて、最低限人が暮らせるスペースを確保すればいい。
「霧島一葉の全作品を二セット置いていなければ、もっと自由に使えるスペースがあっただろうに」
「先生の作品を保管できなければ、家が存在する意義はないですよ」
「…………」
先生は、また恐怖が籠った目で俺を見てくる。
なんだ? 喧嘩なら買うが。
彼女はひとまず洋室から出る。それから、ふと気づいたようにリビングに置いてある写真立てを手に取った。
それは、箱根旅行の写真だった。微笑んだ先生が写っている。
しまった、隙を見て隠せばよかった。
「なんでこんなの飾ってるんだ?」
「……別に、旅行の写真はいつも飾ってるだけですよ」
「ふうん」
そんなこんなで、俺は先生と暮らすことになったのだ。
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