12話 スキナー箱の中


 赤城高陽のタレント業は絶好調だった。コメンテーターやモデル、エッセイストとして各方面で活躍し、テレビやメディアで見ない日はないという域にまで達している。


 最近ではゴールデンタイムのドラマに脇役として登場し、存在感と演技力を発揮して話題となった。世間の注目を集める、時の人となっている。


 新作への注目度も抜群に高い。

 売上もかなりのものになることが見込めた。


 彼女のそんな華々しい活躍の一方で、先生の方はというと……。


 最早日課となった、先生の家への来訪。

 相変わらず重たい遮光カーテンが、大きな窓を覆い隠している。


 電気すらつけておらず、室内は薄暗かった。

 当の本人は、部屋の隅で膝を抱えている。


 先生は絶賛スランプ中らしかった。

 いつもは一切滞りなく作品を仕上げるのに、今回は何を書いてもしっくり来ず、修正を繰り返す内に余計見失って、完全に袋小路に陥っているようだ。


「先生、これまでスランプのときはどうしてたんですか?」

「……なったことない。スランプとか。そもそも小説を書きたくないときは多かったけど、書こうと思えば書けたし」


 じゃあ、今回が初めてのスランプだというのか?


「別に……なんか書けるから書いてただけだし……書けなくなったら書けない……」

 「なんか書ける」とは、随分な言い草だった。それで書いたものが、どれほどの影響力を持っているのか。


「もう書けない……何も書けない……」

 彼女はぶつぶつ呟いている。


 確かにこの人は、俺がいないと生活すらままならないだろうが、いくらなんでもここまでダメになるものか?

 あんな手紙ひとつで?


「……砂洲本くん、わたしが小説書けなくなったら、どうせ捨てるんでしょ?」

「捨てないですよ。今更何言ってるんですか」


「どうだか」

 先生はそっぽを向いた。


「どうせわたしは小説を書くしか能がない女だし。それくらい分かってるんだから。頭のおかしい奴らに付き纏われてるし。赤城高陽みたいな美人で若い女子大生タレントの方がいいんでしょ」

 いじけている。


 このところ先生の情緒のダメっぷりはひどい。

 多少宥めたところで、また戻ってしまう。


 結局のところ、一時的な弥縫策にしかなっていないのだ。

 決定打を欠いていることは明らかだった。


 ……本当に仕方がない。


 この世に、霧島一葉の作品を書けるのはただひとりだけなのだから。


 俺は彼女の傍にしゃがみ込むと、唇を重ねた。


 恋人の触れ合い。

 親密の証明。


 俺が彼女の吐息や熱を感じるのと同じように、彼女も俺の呼吸や体温を感じているのだろう。


「何言ってるんですか。俺は先生のことが大好きですよ」

「うそつき。わたしの小説にしか興味ないくせに」


「そんなことないですよ。小説目当てで誰かと付き合う人なんているわけないじゃないですか」

「…………」


 先生は何か言いたげにこちらを見ている。明らかに信じられていなかった。


「俺はあなたの作品と同じくらい、あなた自身のことを愛してます」

 仕方がないので、彼女に信じてもらえるまで何度でも言わざるを得ないようだった。


「でも、あなたの作品とあなたに抱く感情は別方向です。『霧島一葉』は恋愛対象ではないですから。触れたいと思うのはあなただけです」


 彼女の細い身体を抱き寄せる。華奢な肩の感触と、吐息が掛かるほどの距離。


「何も心配することはないですよ。こんなこと、他の人にはしないんですから」


「……本当?」

「ええ、もちろん」


 先生はこちらを見ない。こういうときはいつもそうだ。


「あなたが小説を書かなくなったって、俺はどこにも行きませんよ」

 事実だった。

 この世に霧島一葉が存在する限り、俺は離れることなどできなかった。


「この世でもっともあなたのことを愛していますから。俺以上にあなたのことが好きな人なんて、いません」

「…………」


 先生は目を伏せたまま話す。


「……小説を書くのが、怖いの」

「怖い? どうしてですか?」


「だって、もし失敗作になったら……」

「俺はずっと先生の担当編集者ですよ」


「ううん、それは……小さな問題だから。砂洲本くんが担当編集じゃなくなったら嫌だけど」

 そこは大事なところらしい。


「わ、わたし、砂洲本くんに少しでも、赤城高陽の小説の方がいいなんて思ってほしくない。駄作を書いて『こんなものか』なんて思われたくない。わたしの無価値さを証明したくない。砂洲本くんの中で一番の小説であり続けたいの」


「仮に、あなたが名作を書けなくなっても、もっとすごい作家が現れても、あなた以上に興味を惹かれることはないですよ」

「ど、どうして?」


「俺にとって、霧島一葉が一番の作家だからです。俺という人間を築き上げてきたのが、あなたの作品だからです」

「…………」


「あなたの文体が、あなたの描く世界が、俺にとっての絶対なんです。他のものは比較にすらなりません。端から眼中にないんです」


「どうしてあなたが、そんなにわたしの小説が好きなのか、分からない」

「分からなくてもいいですよ。ただ、俺の好意が不変のものだと分かってくれればいいんです」


 先生の指が、俺の服を掴む。


「……ほ、本当は砂洲本くんがわたしの小説にしか興味なくたって構わない。小説以外わたしには何もないことくらい分かるし。だ、だから砂洲本くんのために書いてるの。小説を書いてさえいれば何も問題ないなら、むしろシンプルでしょ? それがわたしにとってベストな形だって分かったから」


「だから、あなたの作品にしか興味がないわけじゃないですよ」

 やっぱり信じてもらえないらしい。

 しかし、こんなふうに入り組んで絡まっている人だから、彼女の作品は彼女の作品たり得るのだ。


「先生、俺のこと、好きですか?」

「……す、好き」


「俺も先生のこと大好きだし、あなた以外の人に関心なんてないですよ」

 どの道、俺は彼女のことしか考えられないのだから。


「砂洲本くん」

「なんですか?」


「そ、そこまで言うなら……わたしの意味﹅﹅になってくれる? あなたのために生きたいし、あなたのために小説を書きたい。……意味がないと、ダメだから」


 意味。

 眠る、食べる、立ち上がる、意味。


 人を象るための。

 全部の、意味。


 俺は彼女の髪を撫でた。

「いいですよ。俺が先生の意味になります」


「や、約束だよ? 絶対だからね? 破ったら許さないからね?」

「破りませんって」


 彼女は、俺をじっと見つめた。


「だったら、砂洲本くんはわたしを置いていったりしないよね? 死ぬときは一緒だよ? わたしが死んだら砂洲本くんも死んでくれるよね? だって、砂洲本くんはわたしのものなんだから」

「…………」


 否定の選択肢など存在しなかった。

 首を横に振ったらどうなるかなんてはっきりしていた。


 ときどき思う。

 首を吊った彼女の父。


 娘に自分の夢を押し付けて、彼女の華々しい功績を恨んで死んでいったという、身勝手な人物。

 無責任な、加害者。


 もしかして、だったのではないだろうか。


 何が彼女の父を自死に至らしめたのだろう。

 何が彼の首に縄を掛けさせたのだろう。


 天賦の――禍害の才能で。

 執着で。


 彼女が人を象るために。

 捕えられて雁字搦めになった結果なのではないか。


 そこから逃れる方法が、ひとつしかなかったからなのではないか。


 結局俺の命運は、彼女に出会った時点で決していたのだ。

 あとは俎上で宣告を待つばかりだった。


「……あなたがそれを望むのなら、構いませんよ」

 俺は、またキスをした。


「ごはんを作ることだって、部屋の片付けだって、あなたを外に連れ出すことだって、危険人物から守ることだって、全部やってあげます。一緒に暮らすのも、あなたの全ての意味﹅﹅になることも」

 生きるために必要なことは、全部。


「あなたが何もしようとしなくたって、ひとりじゃ生活できなくったって、どうしようもなくたって、愛してあげます。いいですか? 先生は俺のことだけを考えていればいいんです」


 そっと彼女の頬をなぞる。しなやかできめ細やかな肌の感触。


「俺だって、あなたがいないと生きていけないんですから」


 そっと、彼女が俺の背に腕を回す。

「わ、わたし、砂洲本くんのために頑張って小説書くから……」


「はい、いっぱい書いてください」

「う、うん……今日も泊まっていってくれるよね?」

「……分かりましたよ」

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