11話 カラーレス・ジルコン


 赤城高陽の次の新作のタイトルが発表された。その名も、『カラーレス・ジルコン』。


 あらすじを読むと、いつものような恋愛小説らしい。

 流行りの要素をいくらか盛り込んでいるが、それ自体は特筆すべきところはない。


 しかし、それに付随して発表された情報が異様だった。


「サイン会兼握手会兼ハイタッチ会兼ハグ会兼チェキ会を開催?」

 本に、その抽選券がついてくるのだという。一体ひとりあたりどれくらい時間を費やす目算なのだろう。


 表紙には、旬の有名イラストレーターを起用。帯には、有名芸能人の鮮烈な売り文句。


 赤城高陽自身のメディア露出も格段に増えた。もちろん、行った先々で新作の宣伝。


 早速大手オンライン書店サイトでは、予約本ランキングで一位に躍り出ている。


「ここまでやるとは……」

 この露骨で過剰な販売戦略は、作家やタレントとしての寿命を削る恐れすらある。


 あまりに捨て身の作戦。

 ただ話題をかっさらえればいいのだ。


 テレビに映る赤城高陽を見ながら、先生はぎちぎちと爪を噛む。

「あの女……絶対殺してやる……」


 そしてすぐさまテレビを消し、パソコンに向かう。次回作を執筆しているようだ。


「ダメ……これじゃ足りない……」

 バックスペースキーを連打ながら、ぶつぶつと呟いている。


 わざわざ同じ土俵に乗る必要はないだろうに。

 先生の作品がこの世で一番素晴らしいのは、不変の事実なのだから。


 あの調子だと、逆に良いものが書けなくなる気がする。大丈夫なのだろうか。




 * *




 赤城高陽の新作の情報が出てくるたびに、先生は荒んだ。


 俺が彼女の家から離れていると、電話が数十回単位で掛かってくる。そのくせいざ出ても「いや別に……」とか言う。


 切ろうとすれば嫌がって引き延ばそうとするし、本当にどうしようもない。


 その日編集部で仕事をしていると、編集長が話しかけてきた。相変わらず黒い髪を後ろでひとつ結びにし、鉄面皮を保っていた。


「どうです、お昼でも一緒に」

「ああ、ぜひ」


 連れて来られたのは、いつか来た高級中華料理店。

 平日のランチタイムにふらっと来る店ではないと思うのだが。


 あつあつの小籠包を口に運ぶと、高温の肉汁が口の中で弾けて火傷しそうになる。しまった、もっと冷ませばよかった。


「砂洲本さんが就活生だったとき、最終面接では私も面接官を担当しましたね」

 編集長はふかひれのスープに口をつけてから、そう話す。


「ええ、そんなこともありましたね」


「実はあのとき、君を採用するかは両論に分かれていたのです。初めてでしたからね、面接で霧島一葉の話しかしない人間なんてのは。霧島一葉目当ての人間はもちろん多いですが、ふつうはもっと隠そうとしますよ」

「あ、あはは……」


 趣味はもちろん、就活の軸、大学で取り組んだこと――その他大体の質問に、全て霧島一葉と答えたのだから仕方がない。


 実際霧島一葉目的で会社を選んでいたし、大学も霧島一葉に関するレポートを書き続け、卒論も霧島一葉だったのだから、それしか言いようがなかったのだ。


「しかし、私が全ての責任を取るという一言で、君の採用が決まりました」

「そうだったんですか……」

 まさしく鶴の一声だったわけだ。


 ありがとう、と言うべきだろうか。

 目の前の彼女がいなければ、俺は先生の担当編集者になれていなかったのだから。


「霧島先生のこと、うまくコントロールしてくれてるようですね」

 編集長が不意に話し出す。


 コントロール、か。

「いえ、俺は別に……」


「謙遜することはありません。君の功績に他ならないですよ。彼女は、砂洲本さん以外とはまともに会話すらしようとしないのだから」


 スープに沈んだふかひれを口に運ぶと、なめらかな食感が舌に触れる。噛んでも味がせず、スープの香りだけを感じた。


「最近、珍しく彼女から連絡が来ましてね。絶対に君を、自分の担当編集者から外すなと。すごい剣幕でしたよ」

「あ、あはは……」

 そんなことしてたのか……。


「彼女に耐えられる人間なんて君くらいのものです」

 編集長は箸を動かしながら言う。


「君、霧島一葉以外の作家をまた担当したいですか?」

 唐突な問いだった。


「霧島一葉は確かに稀代の天才作家です。だが、君は一生を霧島一葉に捧げるつもりですか?」


 霧島一葉だけを担当し続けていたら、俺は編集者としてろくな経験を積めないだろう。彼女は編集者なんていてもいなくても、ヒット作を生み出し続けるのだから。


 二人三脚で作品を作り上げる苦難と達成感も、練った企画やプロデュースも存在しない。


 このまま続けていても、俺は霧島一葉の編集者以外の道は歩めないだろう。

 他のキャリアなどは望むべくもない。


 しかし、俺には霧島一葉よりも優先したいことなどなかった。


 編集長は、箸を置いた。

「『力』を持つ作品というのは、確実に存在します。そして、霧島一葉はそれを生み出す側の人間だ」


 確かに、先生の作品には「力」があった。人の心を惹きつけてやまない、「力」が。


「そういうものを作る人間は、何かに――永遠に渇しているんです。渇望が大きければ大きいほど力となり、人の心を掴む」


 渇して、いる。

 飢えている、とも言えるかもしれない。


「特に彼女は、その効き目﹅﹅﹅と抜群に相性がよかった。彼女の才能は、本人すら制御できないほどに暴走している。触れた者全て飲み込む泥沼と化している」

 先生の作品が持つ力は、確かに暴力的ですらあった。


「彼女の作品は万人に広く受け入れられる。だが、それだけではない。その中でも、とりわけ相性が悪かった﹅﹅﹅﹅者たちは、致命的に不可逆的に、狂わされる。もはや才能というより、魔力です。それに中てられた人々を、君は大勢見て来たでしょう?」


 否が応でも、俺の脳内に様々な記憶が去来する。


 ある者は家に押しかけ、ある者は刃物を振り回した。

 俺は他にも、霧島一葉の存在で条理を踏み越えた人間をたくさん見てきた。


 色んな人の生涯を大きく捻じ曲げている。

 恐らくは、悪い方向へと。


 ……いや、それは目立つケースが注目を引くだけだ。


 先生の作品は、何の変哲もなく生きる人の日々に彩りを加え、辛いことがあったときは肩に手を添える。少し前を向く手助けをする。


 そもそも、俺自身が先生の作品を読みたくて仕方がないのだから、それを追い求めるほかなかった。


「彼女は他人の人生をいとも容易く狂わせる。子どもが積み木を崩すように無邪気に、何の他意もなく。腕が偶然ぶつかっただけでしかないと言いたげなほどに」


 俺の胸中を知ってか知らずか、編集長は話を続ける。


「だから気を抜けば彼女に人生を掬われてしまう。取り返しがつかないレベルまで壊される」


 出版業界を、社会を牽引している霧島一葉の作品。

 一時代の文化を担うほどの域に達している霧島一葉の作品。


 彼女が断筆していた時期すら、無数の人間、世界が彼女の作品を待ち焦がれていた。

 その影響力は、今もなお膨れ上がっている。


 一体どれほどの者の人生が、彼女の作品によって決定づけられているのか――


「これだけ言っても、君の中に葛藤は生まれないでしょう?」

「え?」


 葛藤?

 確かにそんなものは微塵も存在しなかった。


 何を思い悩めばいいのかすら分からない。


 編集長は立ち上がった。

 気づけば、円卓の上の皿は全て空になっていた。


「編集長は、作家の御し方をよくご存知なんですね」

「いえ、私も君と同じ、純粋に名作を愛する人間のひとりです」


 俺は「なるほど」と頷きながら、中華料理屋の個室から出る。

 編集長が使うのは作家という人種だけじゃないんだろうな……なんて考えながら。




 * *




 中華料理屋を出て、編集長と別れる。ふと携帯電話を見ると、着信履歴に先生の名前がずらりと並んでいた。

「うわ……っ」


 思わず引いてしまうほどの様相だ。

 こうしている今もまた電話が掛かってきたので、仕方なく電話に出る。


「もしもし――」

「どうして出てくれないの? わたしこんなに掛けてるのに。わたしのことどうでもよくなったの? うそつき。わたしが一番だって言ったよね? 散々巧言を弄しておいて、口先だけだったんだ。ひどい。わたしの気持ちをこんな滅茶苦茶にしておいて。無責任に放り出さないでよ。そんなに軽い言葉だったの? 許せない、許せない許せない、砂洲本くんは一生逃さないから。じゃないと許さないから」


 一切口を挟む余地なく、一気にまくしたててくる。相当ダメになっている。


「……別に嘘じゃないですって。俺は何も変わってません。無責任でもないですし」


「本当? じゃあどうして電話に出てくれないの? わたしがどんな気持ちで鳴らしてると思う? どれだけ放り出された気分になってるのか」


「ちゃんと一時間に一回くらいは出てるじゃないですか」

「か、掛けたら出てよ。出てくれたら安心するから……電話しても出てくれないと不安になるの」


 じゃあ掛けるな……。

 普段俺が電話してもろくに出ないくせに……。


「先生、俺にだって電話に出られないときはあるんです。別に遊んでるんじゃないんですよ。打ち合わせに書店回り、色々あるんです。全部先生の本のためじゃないですか」

「わ、わかってるけど……」


「いいですか? 俺は先生の作品を心の底から愛しているんです。先生の作品以上に価値あるものなんて、この世には存在しません。他のものが敵う余地なんて微塵もありませんよ。確認する必要なんてないでしょう?」


 それは紛れもなく不変の事実だった。


「これしきのことで動転しないでください。そんな必要なんて一切ないんですから」

「う、うん……」


「じゃあもう電話掛けてこないでくださいよ?」

「うん……」

 電話口でも、彼女がおずおずとうなずいていることが伝わってくる。


「砂洲本くん、今日は何時に来るの?」

「……この後打ち合わせがあるので、先生の家には十六時頃に着くと思いますよ」

「じゃ、じゃあ、待ってるから……」


 なんとか先生に納得してもらって、電話を切る。

 どうせしばらくしたらまたひっきりなしに掛けてくるだろうが。

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