10話 常套句
先生の家は洗面所も広々としていて、化粧台は大理石でできていた。
グランドホテルのような洒落たつくりだ。
まだ眠気が残る頭で、歯を磨く。
蛍光灯――人感センサー式で、部屋に入ると自動で点灯する優れものだ――の光が目に突き刺さるほど眩しく感じるが、朝になったからには起きなければならない。
この歯ブラシは一応俺用、ということになっているらしかった。
やっぱりあのキングサイズのベッドは落ち着かない。ろくに眠れなかった。
一晩明けて、先生は今は眠っている。
それはともかくとして、問題は赤城高陽だ。
* *
都内某所の喫茶店。裏通りに面しており、落ち着いた雰囲気だ。
俺の呼び出しに、赤城高陽は意外なほど簡単に応じた。
向かいの席に座った彼女は、優雅にオレンジペコを飲んでいる。
「赤城高陽さん、あの手紙はどういうことですか?」
そう訊いても、彼女はカメラ映り抜群の微笑みを湛えたままだ。先生は今完全にダメになってるのに……。
「渡していただけました?」
「はい。ですが、あの内容は……」
一体どういうつもりなのだろう。
「わたくしは本気です」
彼女はぴしゃりと言う。
「霧島先生はなんとおっしゃってました?」
「あ、いや、その……」
あなた、死を願われてましたよ、とはとても言えない。
口籠る俺を見て、赤城高陽は大方を察したらしい。
「霧島先生が担当編集者にご執心だという噂……疑わしいと思っていましたが、あながち間違ってはいなかったようですね」
そんな噂があるのか? 流れていたとしても、ごく一部の間でだけだろうが、彼女はそれをキャッチしていたらしい。
「失礼は承知の上です。わたくしが敗れた場合どうするかは、霧島先生がお決めになってください」
「え、先生が、ですか?」
「はい。自由に決めてくださって構いません。わたくしも、自由に決めましたから」
その瞳は真っ直ぐこちらに向けられている。
そんな、裁量を他人に委ねるなんて、みすみす己が身を危険に晒すようなものだ。
ましてや、相手はあの霧島一葉だぞ? 勝機なんて一片たりとも存在しない。ただ自分の弱みを作り出すだけだ。
「あの、赤城さん。どうしてああいった手紙を?」
俺の問いに、目の前の女性は悪戯っぽく笑う。テレビでよく見る澄ました笑みとは全く違っていた。
「見てみたくないですか? 霧島一葉が負けるところを」
「……え?」
赤城高陽は、香りを楽しむようにカップを口元に運んだ。
「デビューしてからわずか三年で著名な賞を全て獲得し、そして十年前にベストセラーランキングの一位を取って以来、今の一度も他作品に一位を取らせたことのないあの無敗の女王を、生ける伝説を、ただの人間に引きずり降ろしてやりたいんです」
俺は唖然とするしかなかった。
「それは……担当編集者としては看過できませんね」
「そうでしょうね」
悠然とうなずく彼女。
「でも、霧島先生が敗れた場合、あなたにはわたくしの担当編集者になっていただきます」
* *
全く……あんな言葉に何の現実味もない。
頼まれたって、先生の担当編集者はやめないというのに。
問題は、先生が真に受けてしまっていることだ。
いや、彼女の平穏を脅かそうとする意志に直接触れたことがよくなかったのだろう。
脅威の芽はなんとしてでも取り除かねばならないというモードに入ってしまった。
赤城高陽と別れて、仕事をある程度片付けた後、俺は先生の家を訪れる。顔を出さないと、それはそれで厄介そうだからな……。
大きな窓に面した日当たりのいい部屋。もっとも、今は分厚いカーテンで隠され、室内は薄暗いが。
先生はリビングにいた。
ソファの前のローテーブルには、開けられた瓶や缶が散乱していた。
それら全てに印字された、「お酒は二十歳になってから」という定型文。
「……昼間から酒飲まないでくださいよ」
先生、酔うとめんどくさいんだよな……。
「砂洲本くんも飲めばいいのに」
「遠慮しておきますよ」
仕事中は飲まない主義なのだ。
「砂洲本くん、どうしてもっと早く来てくれなかったの? わたしずっと待ってたんだよ? いつも砂洲本くんが来るのを楽しみにしてるのに」
彼女は一口でそうまくしたてるが、話はそこで終わりではなかった。
「もしかしたら砂洲本くんが赤城高陽のところに行ったんじゃないかって、心配で、辛くて、何も考えたくなくて、でも前にブロンいっぱい飲むのはもうダメって言われちゃったし、だから代わりにお酒飲んじゃった。我慢して砂洲本くんの言う通りにしたんだよ?」
先生が強引に俺の腕を引くので、仕方なく彼女の横に腰掛ける。
「ねえ、砂洲本くん、一緒に住もう? いいよね? そうしたらもっと一緒にいられるし」
「この部屋に住むのは落ち着きませんよ」
「こんな部屋、いつでも引き払うから。砂洲本くんが住みたいところ、どこにでも土地も家も買ってあげるよ? 山手線の内側だって、どれだけ地価が高くたって。お金ならいくらでもあるし」
「い、いらないですよ」
彼女は、俺の腕に両腕を絡ませてきた。
同時に体重を預けてくる。軽いが確かな重みを感じる。
「わたし、なんでも買ってあげるよ? 欲しいものは全部買ってあげるから。現金の方がいいなら、それもいくらでも渡すし……。砂洲本くん、喜んでくれる?」
「一緒に住んだら、先生、どうせ家事全部俺にやらせるでしょう?」
今も似たようなものだが。
先生は、手のひらと手のひらを重ねてきた。彼女のしっとりと冷たい肌の感触が、伝わってくる。
「だって、砂洲本くんに面倒を見てもらえるの、好きだから。もっとわたしのこと気にかけてほしいし、わたしのことだけを考えてほしいし、わたしでいっぱいになってほしいから」
そ、そんな理由で家事をやらせてたのか……。
先生のために俺が何かに時間を費やしているということ自体が、きっと彼女にとっては望ましいものなのだろう。
「砂洲本くん、まさか赤城高陽の方がいいなんて言わないよね? わたしと別れるなんて言わないよね? 絶対わたしと別れないよね?」
「……別れないですって」
それで別れるんだったら、とっくにもう先生とは付き合っていない。
「絶対だよ? 約束して? 砂洲本くん、わたしのこと裏切ったりしないよね? どんなときもわたしの味方でいてくれるよね? 砂洲本くんのこと信じてるからね」
彼女の細い指先が、俺の手のひらの上をなぞる。
親指の付け根の辺りを繰り返しなぞっていたかと思えば、さらに少しずつ手の中心に進んでいく。
這っていく指と形のいい爪の感触。
何度も何度も、確かめるように。
一体何を確かめているのだろう。
それから、指を絡ませていく。彼女のしなやかな肌から、冷たさが伝わってきた。
「砂洲本くんのためならなんでもするからね? 砂洲本くん以外全部どうだっていいの。砂洲本くんが毎月わたしの新作を読みたいって言ったから、ちゃんと毎月書いてるでしょ? 全部砂洲本くんのために書いてるんだよ?」
相変わらず冷たい手だ、と思った。指先が氷のようだ。
触れているだけで、こちらの熱が奪われていきそうだ。
「わ、わたし、小説を書くしか能がないけど……その分いっぱい書くから。砂洲本くんになら、わたしの書いた小説の著作権だっていくらでもあげるし。別に、あんなものいらないから」
「お、俺だっていらないですよ……」
そんなのもらってどうするんだ。
いつの間にか、俺の背がソファの肘掛けに触れていた。寄りかかってくる先生の上体が、俺の身体を倒していた。
ソファと先生に挟まれて、ろくに身動きが取れない。
ただ彼女の感触だけを感じる。
先生は、俺の手に小さなバタフライナイフを握らせてきた。
「な、なんですか?」
「ねえ、砂洲本くんにわたしの手首を切ってほしいの」
「え……? し、しないですよ、そんなこと」
「ちょっと傷をつけるだけでいいから。そうすれば安心できるの」
「い、いや……とにかく、こんな危ないものは仕舞いますから」
俺は折り畳みナイフの刃を畳んで、できるだけ遠く、部屋の隅に
「……どうして? どうして切ってくれないの? わたし、こんなに砂洲本くんのことが大好きなのに」
「せ、先生の身体に傷をつけるなんて、そんなことできないですよ……」
「…………」
彼女の指が、不意に俺の首に触れた。
「ねえ、わたし、ときどき思うの。霧島一葉という存在は何を持って構成されるのかって。霧島一葉が出した小説は霧島一葉の一部だし、あとがきやインタビューは『本人の声』でしょ? だったら、霧島一葉のインタビューやコメントを書いてる砂洲本くんは? 最早霧島一葉の構成要素じゃない?」
確かに、俺はしょっちゅう先生名義のインタビューやコメントを代理で答えている。「霧島一葉」を一緒に作り上げていると言っても過言ではないのかもしれない。
「砂洲本くん、わたしと
目の前に、こちらを覗き込んでくる彼女の瞳があった。どこまでも赤く透き通るようでいて、黒い瞳孔が開いている。
「……いいですよ、あなたがそれを望むなら」
「じゃあ、一緒に暮らそう? いいよね? もう決まったから」
「え!? どうしてそうなるんですか」
「砂洲本くんがいないと心配だし……砂洲本くんがいないと生きていけないし。ねえ、いいでしょ?」
これは、うなずくまで解放してくれなさそうだ。
「……わかりました、わかりましたよ。一緒に暮らしましょう」
そう答えると、先生は笑顔を見せる。
「えへへ、よかった。ねえ、砂洲本くん、わたしのこと好き?」
目の前の真紅の瞳を、俺はじっと見つめた。少しでも逸らしたらどうなるか、想像に難くなかった。
「……好きですよ、じゃなきゃこんなことしませんから」
先生は唇を触れ合わせてきた。
それもまた、確かめるための行為だった。
出会ったばかりの頃と比べ、ここのところ先生はだいぶ落ち着いてきていたのに、すっかり情緒がダメになってしまっている。
赤城高陽のことを本当に恨む。
いや、これもきちんと手紙の内容を精査しなかった俺の責任か……。
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