9話 ラブレター
その日出社すると、赤城高陽が来ていた。俺の姿を認めた瞬間に、笑みを浮かべる。
「手強いですね、あなたって」
桜色の封筒を差し出してきた。
「……これは?」
そう訊くと、彼女はくすくすと少女のように笑った。
「霧島先生への、ラブレターです」
「え?」
ラブレター? ファンレターではなく?
「冗談ではないですよ。ちゃんと、ご本人にお渡ししてくださいね」
俺の手に強引に握らせると、赤城高陽は去っていった。ホワイトバニラの香りを残して。
なんだったんだ……?
まさか、これだけのために来たのだろうか。
俺は、手元の封筒を見つめる。
このときは、この手紙がとんでもない波乱を呼ぶことに気づいていなかった。
* *
普段通り、俺は先生の家を訪ねる。
無論、仕事をするためだが。
「先生、先日発売された『ファンタジー』の売れ行きは絶好調ですよ」
「ふーん」
相変わらず興味なさそうに、彼女はテレビを見ている。古い邦画――老夫婦が東京に住む子どもたちに会いに行く物語――が流れていた。
霧島一葉の新作『ファンタジー』は、大絶賛で受け入れられていた。
もちろん先生の作品という時点で売上一位の座をキープすることは約束されている。その座から陥落するのは、先生の新たな作品が出版されるときまでない。
それでも、今作の輝かしい世界の虜になる読者はめざましいほど多かった。
既に「続編が読みたい」というような熱望の声が無数に上がっているし、シリーズ化を見越した上でメディアミックスのオファーが来ている。
そして、いつものように先生は俺に丸投げしてくるのだった。
『サイコキラー』の方も、文芸誌に掲載され好評を博している。禍福は糾える縄の如しとはよく言ったものだ。
「それで、これが赤城高陽さんからのラブレターだそうです」
「ラブレター? 私に?」
「そうらしいです」
「というか、もしかして赤城高陽とやりとりしてるのか?」
「ときどきですよ」
「へえ」
ダメだ、手紙に全く興味を示していない。彼女はリモコンから乾電池を抜き差ししてすり減らすことに忙しいようで、上の空だ。
「先生、読まないんですか?」
「どうだっていいからな」
「なんてったって、『次世代の霧島一葉』ですよ?」
「……随分赤城高陽にご執心みたいだな」
「まさか。先生の作品には及びませんよ」
そう言うと、彼女は深いため息を吐いた。
「ああ、本当に霧島一葉は素晴らしいな」
先生は顔を上げてこちらを見る。
「君は彼女を『次世代の霧島一葉』だと思うか?」
「いえ、特には……」
その作風に一切共通点などないし。
ただ、若い女流作家というところが同じなだけ。なんともつまらない売り文句だと思う。
そもそも、太陽は世界にひとつしかないのだ。月も他の天体もその代わりにはならない。
「私が赤城高陽に興味を抱く要素があるとすれば、ひとつだけだ。霧島一葉が失墜すれば彼女は誰の次世代になるのかと、それだけだよ」
重症だ。
「まぁまぁ、目を通すくらいなら
俺が手紙を渡すと、彼女はしぶしぶ読み始める。
中には一枚の便箋が入っているのみで、それほど長い手紙ではない。
しかし、先生はじっと文面を見つめていた。
そして唐突に手紙を握りつぶした。
「許せない許せない許せない……」
彼女はうつむいて、親指の爪を噛み始める。
「せ、先生?」
「あの女……死んでしまえばいいのに……一体何様のつもり? 絶対に許さない……」
ど、どうしたんだ?
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……」
くしゃくしゃになった便箋に、アルコールスプレーを吹きかけている。
こんな先生は初めて見た。
彼女はパソコンに向かうと、目にも留まらぬ勢いでタイピングを始める。どこかに連絡しているようだ。
俺は、床に投げ捨てられた便箋を手に取って広げる。
桜の和紙の便箋には花の香りが染み込ませてあった。
万年筆によって書かれた、細く流麗な文字。
文面は、こうだった。
霧島一葉先生へ
拝啓
風薫るすがすがしい季節となりましたが、霧島先生におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。
わたくし、作家を務めております赤城高陽と申します。巷では「次世代の霧島一葉」とあだ名されておりますが、これが恥知らずな誇大広告であることは誰の目にも明らかでしょう。
こんなわたくしがあなたさまにお手紙を差し上げたのは、他でもありません。
霧島先生の担当編集者――砂洲本さんとは、近頃大変親しくさせていただいております。ぜひ彼と一緒に作品を作り上げていきたく存じます。しかし、彼はあなたさま以外の作家を受け持つことはできないご様子。
そこで、わたくしはこう考えました。
砂洲本さんが、霧島先生の担当から外れれば良いのだと。
霧島先生は編集者に関係なく天才であらせられるのですから、わざわざ優秀な編集者の方を独占なさる必要はどこにもございません。
しかし、あなたさまが無条件に是認するとは思えません。
ですから、勝負をいたしましょう。非常にシンプルな勝負です。
お互いの次の新作の、売上勝負。
拙作の初週売り上げが霧島一葉先生の新作の初週売上を超えたら、砂洲本さんをわたくしの編集者にしてください。
もちろん、その場合先生の編集者は別の方になるでしょう。
末筆ではございますが、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
敬具
赤城高陽
読み終わった俺は、愕然とせざるを得なかった。
なんだ、この手紙は?
俺が、赤城高陽の担当編集者になる?
先生の担当から外れて?
ラブレターというよりも、果たし状だった。
俺と赤城高陽が最近親しくしている? 単にメールでいくらかやりとりしただけだというのに。
それにこれ、先生に一切のメリットがない。肝心の、先生が売上で勝ったらどうなるかは書かれていないし。めちゃくちゃな話だ。
「そんな手紙触らないで!」
俺が便箋を読んでいることに気づいたらしい先生は、無理やり奪い取る。
「せ、先生、落ち着いてください。こんな手紙、別に何の強制力もないですよ」
「当たり前でしょう!? 砂洲本くんは永遠にわたしの編集者なの! わたしだけの! こんな奴なんかには渡さない!」
完全に動転してしまっている。
しまった。いくら差出人が有名作家だからって、中身に目を通さないのはまずかった。俺の失態だ。
「わたしの知らない間にこんな女なんかとかかずらって……許せない許せない許せない」
「か、かかずらってませんよ。前の授賞式で初めて会って、そこからメールで何回かやりとりしただけです。一緒に仕事しないかって言われましたけど、その話はまとまりませんでしたし」
「当然でしょ!? わたし以外の作家を担当するなんて許さないんだから! 砂洲本くんには絶対他の作家を担当させるなって編集長にはしつこく言ってあるの! もし破ったらもう絶対に小説書かないって!」
そ、そんなことしてたのか……。
「砂洲本くんはわたしが書いたものだけを読んでいればいいの! そのために小説なんか書いてるんだから! だって、わたしの小説以上のものなんてこの世にはないって言ったでしょ!?」
さすがに俺だって先生以外の作品は読むが。編集者なんだし、最近のトレンドの追跡は欠かせない。
「砂洲本くん、まさかこんな女の方がいいなんて言わないでしょうね!?」
「ち、違いますよ。赤城高陽の本は趣味じゃないですし。先生の作品以上のものなんてこの世に存在し得ないですよ」
その言葉は、いくらか先生をなだめる効力を持っていたようだ。
彼女はこちらから目線を外し、黙って椅子に座り直す。
なおも苛々したように爪を噛みながら、
「あの女……殺してやる……」
ま、まずい。刃傷沙汰なんて勘弁だ。
言ってしまえば、ただの手紙に過ぎないのに……。
「砂洲本くんを担当編集者にするなんて……そんなこと絶対にさせない……砂洲本くんはわたしのものなのに……」
「……別に俺はあなたのものでも構いませんけど。こんな手紙、気にしない方がいいと思いますよ。俺たちに何の影響も及ぼさないですし――」
そこで俺の言葉は途切れた。
いきなり唇を重ねられたからだ。
呼吸が奪われ、繋がる。
熱が循環し、触れる。
顔を離したのも、彼女の方だった。
目の前に、彼女の整った双眸がある。
「砂洲本くん、わかってるよね?」
こちらを射抜いてくる、鋭い視線。
「……わかってますよ」
「じゃあ今日は帰らないで」
「……はいはい」
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