6話 原稿
俺は、今日も先生の家に通う。
このやたら長いエレベーターにももう慣れた。
先生も、体力をつけたいなら一階から最上階まで階段で上れば手っ取り早いだろうに。あの人なら途中で倒れかねないか。恐らく、三階辺りで。
部屋に入ると、先生は起きていた。椅子に腰かけて、キーボードに指を走らせている。そして時折挟まれる、コントロールキーとSキー。
「先生」
「うわあっ」
声を掛けると先生は異様なまでに飛び跳ねて、椅子が傾く。幸い転倒とは行かなかったが……。
「……驚き過ぎでしょう」
「君が驚かせるからだ。全く……」
振り向きもせずに、先生が話す。
「先生、箱根の写真、ここに置いときますね」
「ああ」
いかにも気の抜けた返事だった。聞いているのかどうか怪しい。だが邪魔するのも悪いだろう。
にしても……一年半前に比べ、今では俺のことなんて体の良い使い走りくらいにしか考えてないんじゃないか?
……俺は俺の仕事をするか。
相変わらず冷蔵庫の中身が心許ないことを確認して――嘆息して――俺はエレベーターで一階に降り、最寄りのスーパーに向かう。
といってもさすがは高級住宅街、最寄りのスーパーもいかにもな高級スーパーである。
無頓着な俺にはよく分からないが、とにかく品質重視のようでお値段も割高だ。
食材を買い込んで、家に戻る。先生は、出かける前と何も変わらない体勢でかたかたしている。
「これ、レシートです」
財布から二つに折ったレシートを取り出す。
彼女はそれを受け取ると、一瞥する。
「材料を見るだけで、大体メニューが分かるものだな」
大言壮語もいいところだと思う。
今度にんじんとたまねぎとじゃがいもだけを買って来ようか。それだけで何を作るか当てられたら、むしろすごい。
「あーいちいち出すのめんどくさいー」
自分の財布を漁りながら、先生が不満げな声を出す。そして、諦めたのか一万円札を一枚ぽんと渡してくる。
面倒なのは分かるが、もうちょっと頑張る気概を見せてほしい。
仕方ないので俺も財布を漁って、おつりを捻出する。
「もう私のカードあげるから、それで買い物して来てよ」
「やめてくださいよ、俺、それで車とか家買いますよ」
「いいじゃないか、好きなだけ車でも家でもなんでも買えば」
先生に冗談は通じなかった。
実際に車や家をいくら買われても全然困らないからこそ言える台詞だろう。そもそも使えないけどな、カード。
「先生、たまには外食しに行ったりしないんですか? 俺、原始時代レストランっての知ってますよ」
「外食の良さが分からないんだよ」
どれだけ出不精なんだ……。
料理はそれほど手間取らずに完成した。
鯖の味噌煮にひじきの煮物。栄養バランス重視のメニューだ。
ダイニングのテーブルに並べると、先生が寄ってくる。
「いかにもな家庭料理だね」
彼女はそう言いながら鯖の小骨を器用に取っていく。
さすがに骨抜きを使って一本一本丁寧に取るほど、俺は家庭的でも甲斐甲斐しいわけでもない。だから自分で取ってもらうしかないのだが、不器用そうなのに、こういうのは上手い。
「これは良い鯖だな。旬じゃないだろうに」
「あのスーパーが良かったんですよ、きっと」
割高な分、質もなかなかじゃなきゃ釣り合いが取れない。
「スーパー?」
「近所にあるでしょう、なんか小洒落た名前の」
「ふうん……」
反応がおかしい。
ひょっとしてこの人、最寄りのスーパーを知らないのか?
それはなんというか……想像を絶するような生活を送っているんだろうな。
「それで先生、今度出る新人作家の小説の帯コメントを頂きたいという依頼が来ていましたが」
「へえ、いいんじゃない? 例によって君が書けばいいじゃないか」
「……先生、たまには自分で書きませんか?」
「彼らが求めているのは『霧島一葉』という名前だけだ。それを満たしてやれば、書くのは誰でもいいだろう」
またそんなことを言っている。
彼女は、メディアミックスのチェックも全て素通り、なんだったら目すら通さない。
俺は先生の文章の特徴や傾向を知り尽くしているから、真似ようと思えばいくらかはできる。
しかし先方が先生にオファーを出している以上、先生自身が書かないのは不誠実だろう。
「私が書いた『こんにちは』と、君が書いた『こんにちは』の五文字に違いは存在するか?」
「大有りですよ。聞き手が受ける印象が全く違います。あなたが書く文字を我々は求めてやまないんですから」
「……へえ」
先生はそれだけ言った。
やり取りを重ねても、暖簾に腕押しのようだ。
「そういえば、さゆるちゃんからお金を返してもらいましたよ。正確にはさゆるちゃんのお母さんからですけど」
「ふうん。まぁあのくらい、どうだっていいだろう」
「な……そんな調子じゃダメですよ! あの金で先生の本が何冊買えると思ってるんですか」
「何冊でも買えばいいだろう」
なんともおざなりな返答だった。
「全く、一体何が彼らをそこまで駆り立てるんだろう。理解できないよ」
彼女はそう言って肩をすくめる。
「先生は人気ですから」
「そんなのは人気とは呼ばない。『狂信的な自分』に陶酔するための道具として都合良く扱われているだけだ。恋に恋する少女が、結局想い人自身はどうでもいいようにな」
「……斜めに見すぎでしょう」
どんな危険ストーカーが現れようが、俺はそれを撃退するだけだった。先生の作品を守るために。
「彼らは『霧島一葉』しか知らない。本人像なんて、あとがきやインタビューの少ないページからいくらか察する程度だろう。そしてそれすらも虚像だ。なのに、どうしてあれほどこじらせることができるのか……」
先生のあとがきやインタビューは嘘だらけの内容となっている。あれを鵜呑みにしてしまえば、自堕落な先生の実態を受け入れられないだろう。
「小説越しでも、作者の人柄は充分過ぎるほど伝わってきますよ」
「つまり読者に、私の性格は筒抜けだと?」
「そこまでではありませんが……ある程度は分かりますよ」
結局創作物は人間の手によって作られるのだから、そこに個性が出るのは当たり前だ。ましてや、ほとんど個人に帰属した、小説という媒体なら尚更。
余程の意図がない限り、自分がダメだと思う要素は入れないだろうし、作品の細やかな点から作者の傾向やセンスも読み取れる。文中に出てくるもので趣味や世代を窺い知ることも可能だし。
さらにそれらを拡大解釈していけば、人柄だって小説全体から充分想像できる。ひねくれているとか、面倒くさそうとか、ここはやっつけだなとか。何を言わんとしているのかも。
創作活動は自己表現だと言われることもままあるのだし、読書尚友とも言うし、なんだったら分かりやすいくらいだ。
そもそも小説なんてのは、作者の内側の一番深いところから出てきた言葉の連なりだ。
普通に会って話しても絶対聞けないような、言葉の。
小説でしか触れられないその人の深層と言っても過言ではない。
「ふうん……」
分かったのか分からないのか、先生はそんな生返事をする。
しまった、言い過ぎてしまったか。
そろそろ会社に戻るか……。
「じゃあ先生、俺――」
「あ、砂洲本くん」
「なんですか?」
「これ、読んでみるか?」
先生は紙の束をひとつ差し出してくる。原稿用紙のようだった。
最初の行に、『パールグレー』と書いてある。
「これって……」
間違いない。
あの、『パールグレー』の生原稿だった。当時の彼女はまだ肉筆で執筆していたらしく、原稿用紙に美しい文字が並んでいる。紛れもない先生の字だ。
「あ、ああ――」
気づけば、俺は涙を流していた。ぽろぽろと、頬を伝っていく大粒の涙――無論原稿を汚すような真似はしないが。
しかし、不思議と気分は爽快だった。なぜなら、今、俺は神と対面しているからだ。
「生きてて良かった……」
涙も拭わずに、崩れ落ちる。もちろん原稿は取り落とさない。手放すわけには、いかない。
「面白い無様さだねえ」
先生の言葉も耳に入らない。震える手でページをめくっていく。
す、すごい。流通版とほとんど同じだ。でも、先生の綺麗な字で書かれている。
今まで生きて来てこれ以上高揚したことはないだろう。原稿用紙上に広がる文字の一つ一つが光輝いて見えた。
最後のページまで読み終えても、まだ感動に打ち震えていた。
「これこそが国宝だ……」
俺は今歴史の目撃者となったのだ。
「そこまでか?」
先生の声も、最早遠い。
腕の中の原稿の重みが、世界の重さだった。俺はこの作品に帰依しよう。
「じゃあ先生、俺はこれで」
「何持ち逃げしようとしてるんだ」
すぐにでも家に帰ろうと思ったのに、引き留められてしまった。仕方がない。奥の手を出そう。ここで時間を使っている暇はないんだ。
「いくらですか?」
「え?」
先生は戸惑ったように口をぽかーんと開ける。なかなか見ない表情だった。
「いくらで売ってくれます? 好きな値段を言ってください。いくらだって出しましょう」
「さ、砂洲本くん、その……いいよ、そんなに欲しいならあげるよ」
「ありがとうございます、先生愛してます」
先生は、またぽかんとした。こういう表情をすると、案外幼く見える。
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330656901658927)
「な、何を急に……」
彼女の声は上ずる。
「そ、そんなこと言われても……わたしは別に……げ、原稿ならまだ他にあるけど……」
「え、本当ですか!?」
「う、うん……あげるから……全部……」
俺は浮き浮き家に戻り、鍵付きのガラスケースに原稿を入れ、しばらく拝んだ。
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