5話 天の涯


「うーん……」

 俺は頬杖を付く。


 職場でも、考えるのはもちろん先生のことだった。

 一体これからどうしたものか……。


「砂洲本さん」

 そう声を掛けて来たのは編集長だった。


「調子はどうですか?」

「良くは……ないですね」


 彼女が求めているのは先生の新作だろうが、未だその目途は立っていなかった。というかあの様子じゃ小説を書く以前の問題だ。まず先生の暮らしをなんとか立て直さないと……。


 だが無論そんな答えで編集長が満足するはずがない。


「彼女は甘えているんです。なに、少しおだてればいいんですよ。そうすればまた小説を書くようになる」


「…………」

 なんだか、先生の作品まで侮辱されているような、そんな気がした。


 先生の作品は崇高な存在なのだ。そんな軽く扱われるものではない。大体こっちは二年も待たされているのになんだ、その物言いは。そんな浅い見識しかないから彼女は新作を書かないんじゃないのか?


 そんなことが頭の中を駆け巡っていく内に、自然と口が開く。

「……すみません、そういう言い方は止めてもらえますか。先生はそんな言葉を向けていい人ではないんです」


 失言だった。まかり間違っても、上司に言うべきことではなかった。

 だが、編集長は顔色ひとつ変えなかった。


「あなたに任せます」




 * *




 叱責を免れた俺は、今日も今日とて職務を果たすために先生の家にいる。


「おなかすいた」

 彼女はそう言ってじっとこちらを見ている。


 やはり放っておくと何も口にしないらしい。先生には生物に本来備わっているはずの生存本能というものがないのだろうか? なんて不十分な生き物だろう。


 仕方がないので手早く料理を作って完成させる。

 出来上がったのは肉じゃがだ。今更何か言うのも口幅ったいほどの定番家庭料理。


 テーブルに並べると、先生が早速食べ始める。相変わらず表情一つ変えないので、おいしいのかおいしくないのかも分からない。


 だが箸の進むスピードは速い。まぁ悪いということはないのだろう。……こういうところからでしか窺えないのも悲しい話だが。


 自分の分もよそっておいたので、俺も口に運ぶ。

「うわっ」


 思わず声が出るくらいまずかった。味がめちゃくちゃだ。これは……みりんと酢を間違えたのか?

 口の中が爆発しそうなくらいの不調和。


 しまった、味見すればよかった。

「すいません、先生――」

 そう謝ったものの、彼女は既に半分以上食べ終わっていた。


「だ、大丈夫ですか?」

 慌てて訊くと、どういうわけだかきょとんとしている。


「……まずくないですか?」

「おいしいと、思うけど」


 これが? 別に無理して食べてくれたわけではなさそうだし……というか、先生は何を食べても顔色一つ変えないし、ひょっとして味覚音痴なんじゃないのか?


「すいません、味付けを失敗してしまって……すぐ別のものを作りますから」


 もったいないが、これ以上こんなものを先生に食べさせるわけにはいかない。余計舌がおかしくなってしまう。手をつけていない分は俺が食べよう。


「待って」

 皿を持ってキッチンに戻ろうとすると、呼び止められる。


 彼女の方を向くと、その一対の瞳と目が合って一瞬言葉を失う。

「お仕事だからって毎日大変ね」


 毎日というのは言葉の綾だが、毎日のように来ていることは確かなので何も言えない。


「……好きでやってるので、別に大変とかじゃないですよ」

「好きで?」

「ええ、まぁ……」

 こう言うしかない。


「俺は先生のファンですから」

「…………」

 彼女は箸を置いた。


「あんな小説で喜ぶ人がいるなんてバカみたいだわ」

 吐き捨てるような言い方だった。


「あんな……あんな、どうやれば売れるかだけを考えて作った粗悪品、惹かれる方がおかしいもの」

「な、何を――」


「そりゃ売れる要素を詰め込めば売れるでしょうよ。そこに一切魅力はないけどね。ただ上辺を塗り固めただけ。使い捨ての娯楽を求める層には受けても、決して質がいいわけじゃない」


「そ、そんなことありませんよ。世間がどれだけ先生の新作を求めていると――」

「そこまで『霧島一葉』の新作が欲しいなら、誰にでも名義を貸すのに」

 名義を、貸す?


「それが最善じゃない? 読者は『霧島一葉』の新作が読めてハッピーだし、名義を貸したどこかの作家か作家志望は、自分が書いた作品が評価されて喜ぶでしょうよ。何度言っても編集長は首を縦に振ろうとはしなかったけど」


 当たり前だ。

 目の前にいる彼女以外、誰も霧島一葉の作品は書けないというのに。


「どうせ読者は誰も気づかないわ。名前しか見てないから。わたしが何書いても喜ぶし――」


「お前に霧島一葉の何が分かるんだ!」

 思っていた以上の声量が口から出て、先生の肩が跳ねた。


 霧島一葉をバカにされることだけは、どうしても許せなかった。

 なぜなら、彼女の作品はこの世でもっとも素晴らしいものだからだ。


「俺が一体どれだけあなたの新作を待ち望んでると思ってるんだ! ふざけるな! この世のどこに、他の霧島一葉がいる? 地球に何十億人いようが霧島一葉はあなたしかいないんだ!」

「あ、あんなの誰にだって書けるでしょ……」


「そんなわけないだろ! どうして分からないんだ!」

 決壊したダムのように、俺の口は止まらなかった。


「この世で、あなたが書いた作品以上に心を惹き付けるものなんて存在しないんです! あなたは世界で唯一無二の、特別でかけがえのない人間です。何十億もいる人間の中で、一番崇高な存在です」

 それは、本心からの言葉だった。


「あなたの作品を読んだ瞬間、世界はあなたとそれ以外に大別されてしまいました。あなたの作品なしでは満たされることはなくなってしまったんです。これから先あなたの新作が出ないなら、この世界には何の価値もないんです」


 稀代の大作家?

 歴史に残る偉業?

 出版業界の希望?


 そんなのどうだっていい。

 俺は先生の作品が読みたいんだ。


「俺がこの世でもっとも愛するのは先生に他なりませんし、先生に人生を捧げても全く惜しくありません。むしろ、そうするのが当然だと思います。あなたの作品以上に価値あるものなんて、この世には存在しませんから。それ以外のために生きるのは無意味です」


 勢い余って先生の手首をつかんでいた。少し力を加えれば折れてしまうんじゃないかと心配になるくらい細い。


「だから、ずっとあなたに会いたかったんです。俺はあなたに会うために編集者になりました。乾行社に入社したのも、あなたの本を出している唯一の出版社だからです。死に物狂いで勉強したし、編集者になるためならどんなことだってしました」


 別の生き方なんて考えられなかった。

 先生のいない世界なんて考えられないのと同じくらいに。


「あなたがどう思おうが俺はあなたに長生きしてもらいます。それで、小説をいっぱい書いてもらいます」

「そ、そんな、わたしの意思は……?」


「そんなこと知りません。俺はあなたを愛しているから、あなたの作品がないと生きていけないんです」

「…………」

 彼女は目を見開いた。


「だ、だったら、わたしの全部になってくれる……?」

「え?」


 先生が目を逸らした。その瞬間ようやくじっと彼女の目を見つめていたことに気付く。


 しまった、我を失って色々ぶち撒けてしまった。と、とにかく謝るしかない……。

「す――すいません、頭に血が上ってしまって……」


 先生は依然として黙り込んでいた。さすがに怒っているかもしれない。

 様子を窺っていると、彼女はちらりとこちらを見上げてから口を開く。


「じゃ、じゃあ、わたしたち、お付き合いしましょう」

 それは予想だにしない言葉だった。彼女の頬は、朱色を帯びている。


 お付き合い?

 俺と先生が?

 この流れで?


 理解不能だった。


 だが、俺は頷く。

「分かりました」

 断る気は一切起きなかった。彼女は俺にとっての全てだったからだ。


「砂洲本くん、じゃあ、そういうことで……」

 取ってつけたようなことを付け加える。


「そこまで言うなら、わたし、あなたのために小説を書くから……」

 細い声で、目の前の女性は言った。


「ねえ――あなたはどんな本を読みたい?」


 彼女は、微かに笑う。

 しばらくそんな表情を浮かべていなかったのか、笑い慣れていないぎこちないものだったが、それでも格別に魅力的だった。


「わたし、いくらでも書くから。読みたいのを言って」




 * *




 俺は先生の小説を置いた。ついつい記憶の追想に耽ってしまった。


――じゃ、じゃあ、わたし達、お付き合いしましょう。


 一年半前の、先生の言葉。


 全く、あそこは断るべきだったよな……。先生の新作が二年間も出なくて頭がおかしくなっていたとしか思えない。まぁ、また彼女の作品が読めるようになったのは良かったが。


 ……もし人生に意味があるとしたら。

 俺の人生は霧島一葉の作品のためにあると言っても過言ではなかった。

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